鹿沢温泉・新鹿沢温泉の歴史

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鹿沢温泉・新鹿沢温泉の歴史

 群馬県の最西端、田代地区の湯尻川沿いにある鹿沢温泉と新鹿沢温泉。鹿沢温泉郷の源泉でもある鹿沢温泉は、標高1600メートルの湯の丸山の麓、湯尻川に望む清らかな雰囲気の山のいて湯。
 国指定天然記念物の「湯の丸レンゲツツジの大群落」にほど近く、カラマツの美しい森に包まれた静けさが魅力のひとつといえます。渓谷美もすばらしく、特に新緑と紅葉のころが最高。泉質は含主類重曹泉で、胃腸病や冷え症、神経痛などに効果があります。
 大正八年に、鹿沢温泉より源泉を引いて誕生したのが新鹿沢温泉。場所は鹿沢温泉の源泉から湯尻川沿いに下った山麓の開けた高原に、旅館が建ち並んでいます。浅間山から湯の丸山、吾妻山へと連なる山並みの北麓、標高1300メートルに位置し、温泉の北東には田代湖がおだやかな湖水をたたえています。
 ここには設備の整った和風の温泉旅館が八軒建ち、避暑や温泉を堪能するのに最適な場所といえます。さらに明るい雰囲気がファミリーや若者グループのレジャー志向ともマッチし、周辺にはキャンプ場もあることから、アウトドア派にも魅力のスポットといえます。鹿沢温泉と新鹿沢温泉に挟まれた村上山の山麓には、モダンな「国民休暇村鹿沢高原」があり、くつろぎながら、リーズナブルに温泉や薬草風呂が楽しめます。



 鹿沢温泉と鹿の湯治という伝説は、川端竜子の「霊泉由来」という名作を生んだということでも知られています。この絵は三幅対で、左には衣を脱ぎ掛け、肩からはずしてまさに入浴しようとする奈良朝風の美人、中央は岩の上にもうもうたる湯気の中に立つ石燈籠を、右には一頭の鹿が人間のために傷つけられ、それを大自然のめぐむ霊泉によって癒やす図が描かれています。この竜子の名作は、三十一歳の時のもので、日本美術院の「樗牛賞」を受け、さらに竜子はこの作品によって、日本美術院院友に推挙されたといわれています。

 これは日本武尊による東征時の際の伝説。山中で一頭の白鹿を見つけた日本武尊は、これをめがけて放った矢で白鹿を傷つけ、そのまま鹿は姿を消しましたが、その後を必死で追いますと、その谷間の湯気の立ち上る中で、鹿がじっと傷をいやしていたといいます。竜子はこの伝説を思い浮かべて、画題にしたのでしょう。

 元禄十四(1701)年に今の長野県東部町から出された公文書では、
「根津支配加沢湯之儀隣遠入湯仕」
と記され、鹿沢の湯が称津支配であるとされています。一方、寛延二(1749)年に群馬の大
笹、田代両村から出された公文書にも、「上州吾妻郡大笹田代両村地内出湯信州小県郡根津村支配云々」とあり、鹿沢温泉が上野国と信濃国のいずれに属するかは別として、温泉の支配が三百年近くも前から信州側に属していたことがわかります。さらに、信州と上州の国境の論争は、江戸時代初期ののことであり、元禄十四年から五十年もさかのぼった一六五六年に盛んになっていたことも、前記の文書に書かれています。

 元禄十四年には、加沢湯を含む国境についての訴訟が行われました。信州からは根津村の名主をはじめ、新張村、金井村、新屋村、真田村などの名主が訴訟人となり、上州我妻郡大笹村の名主を相手として、御奉行所への訴訟が行われました。

 国境論争は、その年のうちに決着がつきました。結局、信州と上州の国境は峯通しと定まって落着しましたが、木草を利用することと、加沢湯の支配は信州側に許して、その年貢は大笹村で取り立てることとなりました。

 信州加沢郷薬湯縁起にこう記されています。
「孝徳天皇、白薙元(六五〇)年に、里人、信州の加沢というところの山峯より、光明さすをあやしみ、そこの煙にしたがい来てみますと、熱湯が地より湧出を見ます。さらに聞こえけるは『われ東方薬師如来なり、されば一切衆生老病死の四苦あり、其の苦しみをたすけ、寿命長穏の薬をあたへ、現世の身心をやすらかにせしめ、困苦をすくい処に至らしめんために、薬師の号を得たり』」

 現するところの熱湯は、

「諸病を治する名湯たり云々」

とあり、続いて

「清和天皇の第四皇子御名を、かつらの親王と申奉る、琵琶琴に長じ、ある時、清涼殿にて、琵琶を弾き、遊ありしに、つばめ飛び来り、その糞のため、親王の御目をけがし奉る、そのとき、勅使あり、加沢の名湯を知らされ、深井の亭にうつらせ玉い、昼夜御入湯ありしに、目のいたみ、たちまち赦し、平癒あり、それより都に還らず、信州、上州両国を御領地となされ、真田の郷に御殿を営み、深井何かしの娘をみやっかいにまいらせ、程なく、御子誕生あり、これすなわち、真田の家、総領滋野の先祖たり」

とあり、温泉の共同湯は親王にちなみ、王湯、と称するとか、あるいは建久四年源頼朝が狩りに来たときに、桟敷を作り、入湯したなどと伝えられています。

 また、『加沢記』にあります
「羽尾入道風流者にて常に赤根染の小袖を着して、浅間山麓のモロジ野に遊猟し、加沢の湯などへ入湯し、安楽にぞ暮しける」
の記事からすれば、永禄五(1562)年ごろには、浴室の施設があり、さらに元禄年間においても、湯小屋に関することや、上信国境争いなどの文献からしても、当時から盛んに利用されていることがうかがえます。

 しかし、前記縁起の中に
「諸国の難病、重病のやから、ここに来たり、群集して入湯のもの絶する事なく、その繁昌なること都にひとし、されど乱世に及び亡地となり、往還の道たえて、入湯のものもなければ、名湯もむなしくあれはて、年久しくして、当将軍の御治世にいたって、国おさまり、道ひろくして名湯むかしにかわらず諸人来る」
云々とあり、盛衰の時代を経て、江戸中期に至り、天明年間には一度全焼しています。

 天明四(1784)年正月、田代村へ引湯の計画を立て、時の代官、原田清右衛門御役所へ願い出ましたが、大笹村より文書が送られ、実行できませんでした。

 その後、文政五年11月には、温泉権利者、祢津村の作左工門の承諾を得て、文政六(1823)年四月、引湯嘆願書を提出しています。今回は、田代、大笹両村名主黒岩長左衛門も承知して、その筋からの許可を得て、証文が取りかわされました。これによって、引湯工事は今の農場口付近まで箱樋を以て実施されたといいますが、開湯したという文献は残っていません。

 鹿沢温泉も草津と同様に、四月から十月の間だけの出張稼ぎであり、冬期はそれぞれのところに戻っていたといいます。鹿沢温泉は大正七年二月、二度目の火災によって全焼しました。翌年、紅葉館のみが、旧鹿沢に再建し、ほかの旅館は四キロ下がった、今の新鹿沢温泉に引湯を行い、共同浴場、王湯を再建し、新発足しました。


 明治四十四年の浴客数は、男性三千人、女性二千人、の計五千人。

 大正時代には客数も増え、十二年ごろには男性約七千六百人、女性約五千六百人にアップしました。大正末期の宿泊滞在費は、一人一日座敷料、夜具料、薪炭ほか合わせて金一円以上、一円五十銭まで。旅籠料一泊金一円五十銭より金二円まで。中食料は一食金七十銭より一円まで。浴銭は一人一日金五銭。一ただし、浴銭は温泉取締り所の収入に属し、浴客に対する諸般の設備に充てるものとする一円鹿沢温泉には、共同浴場が王湯、滝ノ湯、千代ノ湯、雲井乃湯、竜宮ノ湯があり、今の紅葉館は内湯として雲井乃湯と称して、利用されています。

 現在の鹿沢温泉は内湯があり、旅館も増え、昭和四十三年十一月には国民保養温泉の指定を受けて、名実共に春夏秋冬、温泉客に親しまれる素朴な温泉郷として不動の人気を誇っています。