武家屋敷・下級武士 |
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武家屋敷安中城内には家臣の屋敷が建ち並んでいましたが、その一部は長屋でした。この建物はそのうちの四軒長屋で、安中城西門のすぐ東にありました。東隣に五軒長屋がありました。この長屋は建築当初は四軒長屋でしたが、そのうち三軒だけ現存していました。これを安中藩の右筆だった小野直が残した図面をもとに平成元年〜平成3年に当初の姿に復元したものです。西側から、間口八間、六間、六間、六間に区分されていました。さて下級武士の長屋をみてみましょう。 これが意外に広いのです。 八畳二間に土間。押し入れ。 いわゆる2LDKですね。 この長屋に住んでいた武士たちの石高が、 十石以下というから驚きます。 十石といえば、最低の生活水準です。 家族4人の米代にしかならない。 現在の物価に換算すると、年俸18万円。 米1石=金1両(小判1枚)=現在の約10万円とすれば、 十石取りの武士の取り分は、4石なので年俸40万円。 実際は、エンゲル係数の違いから、その値段を当時に当てはめることはできませんが、当時の水呑百姓の生活水準より下だったでしょう。その最低レベル武士たちの住む屋敷にしては、ちょっと大きいんですね。 もともと武士の家の庭が大きいのは、 ここで武芸に励むためなのですが、 農作物を造って飢えをしのいでいたにちがいありません。 もちろん家が広いと言っても、壁は土壁。 屋根は、茅葺きですから、質素は質素なんですがね。 それでも室内は、武家屋敷らしいです。 この武家長屋は、郡奉行役宅・山田三川の役宅の隣にあります。 質素を重んじた山田三川の影響が、 この長屋に、あったのかもしれません。 ただ、武士たちには、知行(年俸)の他に、 役料が入ることも多々ありました。 役料とは、役職手当のことです。 役料は家禄に関係なく支給されます。 だから下級武士たちは、一生懸命勉強して 役職につくように頑張りました。 ◆幕末から明治初年の住人(西から東へ)
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