軽井沢聖パウロカトリック教会

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軽井沢聖パウロカトリック教会



 昭和10年に、軽井沢在住のフランス人をはじめとする外国人カトリック信者の努力で建立されたといわれています。

 チェコスロバキア系のアメリカ人、アントニン・レイモンドが南ヶ丘にスタジオ別荘を建てたのは昭和8年です。それ以前、昭和初めに日光から軽井沢に移り、愛宕山の899番別荘を買って夏を過ごしていました。敬度なカトリック信者であるレイモンド夫妻は、この設計と工事に報酬を求めず、奉仕をもって従います。ノエミ夫人は切り紙をガラスに貼ってステンド・グラスの代わりとし、石彫の代わりにセメントでマリア像を作りました。

 後にアメリカで有名な家具デザイナーとなるジョージ・ナカシマは、チャンセルやオルターのデザインをしました。この小さな教会堂は、アルプス山中の礼拝堂を模したものとはいえ、設計者のマインドが投入されて魅力ある建物となり、今日では軽井沢のランド・マークの一つとして訪れる人々の人気を集めることになります。



アントニン・レイモンド

 アントニン・レーモンド(Antonin Raymond、 1888年5月10日 − 1976年10月25日)はチェコ出身の建築家。プラハ工科大学で学び、卒業後の1910年にアメリカへ渡り、1914年にアメリカの市民権を得ます。1919年帝国ホテル設計施工の助手として来日。1922年独立し、レーモンド事務所を開設します。ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したといいます。聖路加国際病院などの設計、ル・ランシーの教会堂(ペレの代表作)をコピーした東京女子大学礼拝堂を建設しました。ペレを介してライトの影響から逃れ、モダニズム建築の最先端の作品を生み出すようになりました。

 前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がレーモンド事務所で学びました。1937年に僧院宿舎建設のため、インドに向かいました。その後、日本を取り巻く国際情勢が緊迫悪化したため、アメリカのペンシルベニア州ニューホープに土地を購入して事務所を構え、10年ほどの間当地で設計活動に従事しました。

 第2次世界大戦の際、アメリカ軍少将カーチス・ルメイは焼夷弾の効果を検証する実験のため、砂漠に東京下町の木造家屋の続く街並みを再現しましたが、この際、日本家屋の設計をしたのはレーモンドでした。この実験は東京大空襲などで生かされました。自伝には日本への愛情と戦争の早期終結への願いという矛盾に対する苦渋の心境が綴られています。

 第2次世界大戦後の1947年にダム建設予定地の調査のため再度来日。その後、新たに事務所を開設し、戦後の日本にモダニズムの理念に基づく秀作を多く残しました。戦後の設計事務所では小規模木造住宅の設計で新境地を開いた増沢洵などが学び、名前を冠した「レーモンド設計事務所」は今も存続しています。1973年、アメリカに帰国。3年後の1976年、ペンシルベニア州ニューホープで死去。88歳でした。