入山峠ハイキング

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入山峠

 入山峠について解説してみたいと思います。

 碓氷峠。江戸時代には中山道がこの峠を越え、現在では上信越自動車道や長野新幹線などの主な交通路線はやはり碓氷峠付近を通っています。しかし、この碓氷峠は、昔は使われていませんでした。昔は、碓氷峠ではなく、入山峠がメイン街道だったのです。

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 それが証拠に入山峠には、峠の頂上に古い遺跡があります。この峠の頂上で、古墳時代はじめの頃の土器、中頃から後期にかけての水晶やガラス製の玉、滑石を使って鏡や剣をかたどった道具など祭祀に使う品々がたくさん見つかっています。また、管玉、勾玉、水晶製棗(なつめ)玉、ガラス玉、臼玉、有孔円板、剣形模造品、刀子形模造品、弥生土器、土師器などが見つかっています。これらの遺跡は、古墳時代の遺物が主なので奈良時代以前に拓かれた古東山道ルートの一部であったと考えられています。

 さらに中世から近世にかけての、石を積んだ塚もつくられていて古銭が見つかっています。古墳時代のはじめ頃から、江戸時代にかけての長い間、この峠でおまつりが行われてたようなのです。ですから古代の東山道はこの峠を越えていたと考える研究者が圧倒的です。しかも入山峠の東西に残る道跡は深く大きな堀割状遺構が存在していて、中世以前の道跡の特徴が良好な状態で残っています。
「入山峠が鎌倉街道である」
と言ってる人もいます。

 時代から考えると、この入山峠を日本武尊が通った可能性が高く、防人たちも、ここを通過した可能性があります。理由は、浅間山の噴火にあります。685年(天武天皇十四年)に大噴火をしていますから現在の碓氷峠は、通過しにくかったと思います。

 さて、ここから本題に入ります。
 この入山峠には、祭祀の遺跡があった。
 つまり、ここを通過する時に、お祭りがあり、
 この通過ポイントを、古代人は特別に思っていた。

 ここが重要です。

 日本武尊が「あがつまはや」と3回叫んだ場所が、ここであるなら古代人が祭祀を行った理由がわかるからです。古代人は、祟りを極度に恐れました。そのために非業の死をとげた人を祭ったのです。日本武尊も非業の死をとげた一人です。そう考えると、日本武尊が入山峠を通過した説も説得力をもちます。

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 もう一つ。

 入山峠は、太陽があたりにくいのです。つまり日本書紀にある碓氷坂、つまり薄日坂は、入山峠である可能性がある。

 それからもう一つ。

 古事記では、日本武尊は、足柄山を通過したことになっています。つまり古事記では、日本武尊は足柄山。日本書紀では、碓氷坂の説をとっています。で、この2つの場所には、共通するものがあったのです。関所です。つまり、足柄と碓氷は関東への入り口だったのです。で、当時の人たちは、関東のことを坂東と言いましたが、碓氷の坂の東という意味です。つまり、古代人にとって、この坂は重要な場所であり、祭祀の拠点でもあったということです。

 以上の点から日本武尊が、ここを通過したと考えても不思議はありません。古代の愛妻家、日本武尊になった気分で、入山峠を歩いてみませんか?

 最後に一つ。入山峠の終点である南軽井沢は、奈良時代の頃までは湖でした。日本武尊が、入山峠を超えて到着した南軽井沢の場所には、美しい大きな湖があり、花が咲き乱れ、水鳥がたくさんいたと思われます。海難事故で妻を亡くした日本武尊が、何を思って、その湖をながめたでしょうか?

 こみあげるものがあったなら、もう一度、後をふりかえり「あがつまはや」と3回叫んだに違いないと思うのは、私の空想にすぎないですかね?
入山峠です。

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 古代に設置された東山道は、入山峠を通る経路を取っていました。それが碓氷峠にとってかわられるのですが、通行が容易で中山道の軽井沢宿や坂本宿での宿継を省くことができる事などから、近世には中山道の裏街道として入山峠を通る入山道が、和美峠を通る下仁田道とともに賑いました。

 入山道は碓氷関と坂本宿の間の原村で分かれ、遠入川を遡上して入山峠を越え借宿村(現・軽井沢町)で中山道に合流する道と、発地(現・軽井沢町)、面替(現・御代田町)などを通り岩村田宿で合流する道がありました。

 ただし、碓氷関の置かれた要害にあるため地元の甘楽郡の入山村・恩賀村にしか通行は認められず、享保18年(1733年)の江戸幕府による信州米買い上げの際も、信州から入山村まで輸送された米を入山村の馬に積み替えています。

 入山道は商品輸送路として公的な道ではありませんでしたが、特に信州各藩の米の輸送などで盛んに利用されていました。

 文政6年(1823年)には入山村で通行料の取り立てが行われ、同8年(1825年)には競合する沓掛・軽井沢・坂本の3宿の困窮を理由に通行禁止になりました。しかし、この禁止によって入山道の農民から不満の声が上がり、一旦は妥協が成立したがその後も紛争が続き、文政10年(1827年)に廻米に限って再び輸送が許可されました。

 その後、弘化4年(1847年)の上田藩の江戸廻米も従来通り入山道を通って松井田宿まで送られるなどし、安政4年(1857年)には沿道の村が入山道の通行差止めの撤廃を願い出ています。


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この峠には、なにげに石碑石仏があります。


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 猩々たちが、私たちを見張っています。

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ここは、祭祀の遺跡があった場所。


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 看板には、このように書いてあります。


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 つまり、ここを通過する時に、お祭りがあり、
 この通過ポイントを、古代人は特別に思っていた。

 ここが重要です。

 日本武尊が「あがつまはや」と3回叫んだ場所が、ここであるなら古代人が祭祀を行った理由がわかるからです。古代人は、祟りを極度に恐れました。そのために非業の死をとげた人を祭ったのです。日本武尊も非業の死をとげた一人です。そう考えると、日本武尊が入山峠を通過した説も説得力をもちます。

 もう一つ。

 入山峠は、太陽があたりにくいのです。つまり日本書紀にある碓氷坂、つまり薄日坂は、入山峠である可能性がある。

 それからもう一つ。

 古事記では、日本武尊は、足柄山を通過したことになっています。つまり古事記では、日本武尊は足柄山。日本書紀では、碓氷坂の説をとっています。で、この2つの場所には、共通するものがあったのです。関所です。つまり、足柄と碓氷は関東への入り口だったのです。で、当時の人たちは、関東のことを坂東と言いましたが、碓氷の坂の東という意味です。つまり、古代人にとって、この坂は重要な場所であり、祭祀の拠点でもあったということです。

 以上の点から日本武尊が、ここを通過したと考えても不思議はありません。古代の愛妻家、日本武尊になった気分で、入山峠を歩いてみませんか?

 最後に一つ。入山峠の終点である南軽井沢は、奈良時代の頃までは湖でした。日本武尊が、入山峠を超えて到着した南軽井沢の場所には、美しい大きな湖があり、花が咲き乱れ、水鳥がたくさんいたと思われます。海難事故で妻を亡くした日本武尊が、何を思って、その湖をながめたでしょうか?