弘田竜太郎作曲碑

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弘田竜太郎作曲碑・弘田龍太郎君を弔う碑

弘田龍太郎君を弔う碑

「極楽に 新曲響け 紅葉燃ゆ」 弘田龍太郎曲碑のすぐ近くに建立されている句碑。 




弘田龍太郎曲碑

弘田龍太郎は島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の作曲者。「千曲川旅情のうた」の作曲がこの地でなされたことを記念して1959(昭和34)年に建立されました。「千曲川旅情のうた」の曲譜と、文学博士中山久四郎の弘田龍太郎をしのぶ文が銅版ではめ込まれています。




弘田 龍太郎

 弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう)は、1892年(明治25年)6月30日 高知県安芸市に生まれました。一絃琴の名手であった母親から、音楽的才能を受け継いだと言われています。

 1910年(明治43年)東京音楽学校(現東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学し、本居長世に師事。在学中に歌曲『昼』を発表。文部省唱歌の『鯉のぼり』は作者不詳とされてきましたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われています。

 1915年(大正3年)東京音楽学校を卒業。1917年(大正5年)同研究科卒業後も同校授業補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱されます。やがて宮城道雄や本居長世らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索しました。

 1918年(大正7年)鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されますと、やがて「赤い鳥運動」に参加、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲しました。しかし、彼の真骨頂は、赤い鳥よりも、小学新報社の『少女号』で清水かつらと組んで発表した童謡にあるかもしれません。その代表作が、「靴が鳴る」「叱られて」でしょう。


「靴が鳴る」   作詞 清水かつら  作曲 弘田龍太郎
 お手(てて)つないで 野道をゆけば
 みんな可愛(かわ)い 小鳥になって
 唄をうたえば 靴が鳴る
 晴れたみ空に 靴が鳴る
 草のそよ風 足なみかるく
 みんな可愛い 蝶ちょになって
 丘を越えれば 靴が鳴る
 晴れたみ空に 靴が鳴る
 花をつんでは おつむにさせば
 みんな可愛い うさぎになって
 はねて踊れば 靴が鳴る
 晴れたみ空に 靴が鳴る

「叱られて」
 作詞 清水かつら
 作曲 弘田龍太郎
  叱られて
  叱られて
  あの子は町まで お使いに
  この子は坊やを ねんねしな
  夕べさみしい 村はずれ
  コンときつねが なきゃせぬか
  叱られて
  叱られて
  口には出さねど 眼になみだ
  二人のお里は あの山を
  越えてあなたの 花のむら
  ほんに花見は いつのこと


 1928年(昭和3年)文部省在外研究生としてドイツに留学、ベルリン大学で作曲とピアノを研究します。帰国後、東京音楽学校教授となるも作曲活動専念のため辞任。以後作曲活動のかたわら、NHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指導、指揮にあたります。1946年(昭和21年)日本音楽著作権協会監事に就任。晩年は長女夫妻が創設した幼稚園の園長となり、放送講習会、リズム遊びの指導にあたります。1952年(昭和27年)60歳で死去。

代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『金魚の昼寝』『雨』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』など多数。他に歌曲『千曲川旅情のうた』、オペラ『西浦の神』、仏教音楽『仏陀三部作』、映画音楽『くもとちゅうりっぷ』など。