北原白秋文学碑『カラマツ』

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北原白秋文学碑『カラマツ』


 1969(昭和44)年、北原白秋の功績を讃え、軽井沢町によって建立されました。自然石の大石には、この地に滞在中、カラマツの林を散策して生まれた白秋の名作「落葉松」の詩が彫られています。



北原白秋 落葉松


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。


からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。


からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。


からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。


からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。


からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。


からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。


世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。


北原 白秋

 1885年1月25日、熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰ります。父・長太郎、母・シケ。北原家は江戸時代以来栄えた商家(油屋また古問屋と号し、海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業としていました。1887年、弟鉄雄が生まれます。またこの年、白秋に大きな影響を与えた乳母シカがチフスで逝去します。

 1891年、矢留尋常小学校入学。1897年、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現福岡県立伝習館高等学校)に進むも、1899年には成績下落のため落第。このころより詩歌に熱中し、雑誌「文庫」「明星」などを濫読します。ことに明星派に傾倒したとされています。1901年、大火によって北原家の酒倉が全焼し、以降家産が傾きはじめます。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年はじめて「白秋」の号を用います。1904年、長詩『林下の黙想』が河井酔茗の称揚するところとなり、「文庫」四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになります。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれました。1905年には『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選し、いちはやく新進詩人として注目されるようになります。このころ、少年時代南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父が亡くなります。

 1906年、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知りあいます。「明星」で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友さらに広がります。また、このころより象徴派に興味を持ちます。1907年、鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚めます。また森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになりました。1908年、『謀叛』を発表し、世評高くなります。またこの年、新詩社を脱退しました。木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加。この会には吉井勇、高村光太郎らも加わり、象徴主義、耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になりました。1909年、「スバル」創刊に参加。木下らと詩誌「屋上庭園」創刊。また処女詩集『邪宗門』上梓。官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるも、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされました。

 1910年、「屋上庭園」二号に掲載した白秋の詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ、発禁処分を受けた(同誌は年内に廃刊)。またこの年、松下俊子(後述)の隣家に転居。1911年、第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家にささげられた懐旧の情が高く評価され、一躍文名は高くなります。また文芸誌「朱欒」を創行。1912年、母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京します。

 白秋は隣家にいた松下俊子と恋におちましたが、俊子は夫と別居中の人妻でした。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置されました。2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられました。人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちました。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされます。1913年、初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。特に『桐の花』で明星派のやわらかな抒情をよく咀嚼した歌風を見せ、これによって白秋は歌壇でも独特の位置を占めるようになります。春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引きあげます。『城ヶ島の雨』はこのころの作品であるといいます。「朱欒」廃刊。発行期間は短かったですが、萩原朔太郎や室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなりました。

 1914年、肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するもほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至ります。『真珠抄』『白金之独楽』刊行。また「地上巡礼」創刊。1915年、前橋に萩原朔太郎を訪います。弟・鉄雄と阿蘭陀書房を創立し、雑誌「ARS」を創刊。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』刊行。1916年、江口章子と結婚し、葛飾紫烟草舎に転居。筆勢いよいよ盛んにして『白秋小品』を刊行します。1917年、阿蘭陀書房を手放し、ふたたび弟・鉄雄と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病みました。

 1918年、小田原に転居。鈴木三重吉の慫慂により「赤い鳥」の童謡、児童詩欄を担当。すぐれた童謡作品を次々と発表し、作品に新生面をひらくのみならず、以降の口語的、歌謡的な詩風につよい影響を与えることになります。1919年、処女小説『葛飾文章』『金魚』発表。生活ようやくおちつき、歌謡集『白秋小唄集』、童謡集『とんぼの眼玉』刊行。1920年、『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。小田原の住居の隣に山荘「木兎の家」を新築した際の祝宴は小田原の芸者総出という派手なものでした。それに白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発し、章子を非難します。着物ほとんどを質入れしたと言う章子は非難されるいわれもなく反発。章子はその晩行方をくらまし、白秋が不貞を疑い章子と離婚。1921年(大正10年)、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。信州滞在中想を得て、『落葉松』を発表します。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。1922年(大正11年)、長男隆太郎誕生。また山田耕筰「詩と音楽」創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送りだします。歌謡集『日本の笛』などを刊行。1923年、三崎、信州、千葉、塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊します。

 1924年(大正13年)1月5日、田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行、龍華寺、羽衣の松などを観光、長歌1首、短歌173首を作ります。同年短歌雑誌「日光」を創刊。反アララギ派の歌人が大同団結し、象徴主義的歌風を目指します。1925年(大正14年)、長女篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊びます。童謡集『子供の村』など刊行。1926年、東京谷中に転居。詩誌「近代風景」創刊。童謡集『からたちの花』『象の子』などを刊行。1927年、出版内容の競合からアルス社と興文社に悶着がおこり、興文社側の菊池寛と対立。詩論集『芸術の円光』刊行。1928年、世田谷区に転居。大阪朝日新聞(現朝日新聞)の企画により福岡県大刀洗町から大阪まで飛行機に搭乗します。1929年、『海豹と雲』など刊行。また『白秋全集』の刊行開始。1930年、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立ち寄り、しきりに家族旅行に出かけます。1932年、吉田一穂、大木惇夫と詩誌「新詩論」創刊。1933年、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降「赤い鳥」に筆を執ることはなくなります。1934年、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊びます。

 1935年、新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌「多磨」を創刊します。大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行。この年、五十歳を祝う催しが盛大に行われます。1937年、糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引きおこし、入院。視力はほとんど失われましたが、さらに歌作に没頭します。1938年にはヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことです。1940年、日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲:信時潔)の作詩にあたります。 1941年、春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。1942年、小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日逝去。享年57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にあります。