追分の一里塚

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追分の一里塚



 道しるべからしぼらく行くと国道の両端に一里塚があります。追分一里塚跡が両側にあります。遠くから見ても分かりますが、なぜか大きさが違います。当初は同じ大きさだったのでしょうが、時代の推移、国道の開削などで変わってしまったのでしょう。江戸から36里目の一里塚です。板橋から追分まで39里、39塚が築かれたことになります。一里塚は道程の標でもあり旅人の休憩の場所でもありました。塚には榎が植えられることになっていましたが桜なども多くあります。

 追分の一里塚には何の木も残っていません。山芝が塚を覆い高原の草花がところどころに咲いているだけです。高さ2.5間というから約4メートル半。中央部をやや平に、林の中でやはり人工的な丸みを残しています。





一里塚(いちりづか)

 元々は中国起源のもので、塚の側に槐の木を植えたり標識を立てたりしていました。ただし、当時の中国での1里は約500mでした。日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われています。室町時代の一休(或いは一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいます。
 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代です。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出しました。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了しました。一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿です。
 一般的に榎を植えた一里塚が多いですが、19世紀末の天保年間の調査による「宿村大概帳」によると、榎が一番多く、過半数を占めます。次に松が4分の1強、ついで杉が1割弱で他の栗、桜、檜、樫は数本程度しか植えられていません。
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