水明楼

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水明楼


 小諸義塾の塾長・木村熊二の書斎。藤村をはじめ丸山晩霞、三宅克巳らと夜遅くまで語りあったと言われています。楼上の欄干に身をまかせながら、愛する千曲川の眺望を楽しんでいた藤村の姿が思い描かれます。 懐古園の南西、千曲川へ下りる坂の中腹にあります。窓からは遠く千曲川や眼下の中棚荘を望むことができます。

入館料無料
小諸駅より連絡通路を渡り徒歩15分
〒384-0032 長野県小諸市古城乙1210(中棚荘)
TEL0267-22-1511(中棚荘) FAX 0267-22-9191


 この水明楼に、木村熊二が残した文書が発見されました。木村熊二は明治女学校の創立者です。明治18年のことで、このあと明治25年に巌本善治が2代目の校長になりました。ところが明治41年には閉校になります。たった23年間の女学校でした。いまどきでは考えられませんが、しかし、その23年間のあいだに、この女学校は時代を変えました。近代日本の女性を次々に送り出しました。木村文書はその一端の謎をあかるみに出したきっかけになりました。

 木村熊二は、京都に生まれて昌平黌で佐藤一斎に学びました。その後、静岡学問所や沼津丙学校のある静岡に移って、ここで田口卯吉らと知りあいました。明治3年に森有礼が少弁務使としてアメリカにわたったとき、外山正一・名和道一・谷田部良吉を弁務館員として選んだのは有名な話ですが、そのとき外山が木村を誘いました。アメリカで多少の世界を知った木村は、妻に鐙子を選びます。鐙子は明治12年に植村正久が創立した横浜バンド系の下谷教会で婦人会をつくっていました。アメリカ帰りの木村と、教会婦人部のリーダーである鐙子が一致相談してつくったのが、明治女学校です。

 発起人に植村正久・田口卯吉・島田三郎・巌本善治、教師には津田梅子・人見銀(稲垣銀)・富井於菟がいました。が、鐙子が急死します。木村は伊東華子と再婚するのですが、この華子がスキャンダラスな女性で、女学校校長の辞任に追いこまれ、小諸に小諸義塾をつくります。そして小諸義塾で島崎藤村を雇いました。


木村 熊二

 出石藩の出身で、桜井勉の次弟で、8歳で江戸に遊学し、10歳で木村琶山の養子となります。江戸に出て昌平黌で佐藤一斎に学びました。その後、静岡学問所や沼津兵学校のある静岡に移って、ここで田口卯吉らと知りあいました。 幕軍に属していましたが、勝海舟の知己を得て、新政府軍の追及を免れました。明治3年に森有礼が少弁務使として渡米する際、外山正一、名和道一、谷田部良吉と共に随行。
 12年後に帰国し、熱心なキリスト教的教育者として主に女子教育に従事します。植村正久が創立した横浜バンド系の下谷教会で婦人会を作ってキリスト教普及の活動をしていた鎧子(とうこ)と結婚。夫婦で相談しつつ、明治女学校を開校し、「女学雑誌」を発刊します。しかし、まもなく鎧子はコレラで急死。
 その後、木村は、伊東華子と再婚しますが、彼女は放埓な性格で、スキャンダルに巻き込まれ女学校の職を退く羽目になります。そこで、長野県小諸で島崎藤村、丸山晩霞等俊才な教師を集め、小諸義塾を創設、中学教育の振興に努めたほか、小諸で桃や苺の栽培を推奨したり、中棚荘の鉱泉を発掘しています。 当時、木村が住んでいた住まいは、「水明楼」という名で今も現地に保存されています。
 この建物は、島崎藤村の有名な「千曲川のスケッチ」の中にも出てきます。二度目の妻、華子は結局、愛人と出奔し、木村は三度目の妻として東儀隆子を迎えました。木村の命日は、「連峰忌」の名で供養が行われています。