龍岡城五稜郭

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龍岡城五稜郭


 龍岡城は長野県佐久市(旧南佐久郡臼田町)にある江戸時代末期の城郭です。五稜郭といいますと、戊辰戦争で榎本武揚や土方歳三が拠点とした箱舘五稜郭(函館)が有名です。けれども信州の山間にもう一つの五稜郭があったことは意外に知られていません。

 ところで、なぜ星形の城郭を構えたのでしょうか。日本の近世城郭は江戸初期に完成を見て、その後は幕府によって新規の築城も禁止されたことから、ほとんど進化が停まります。ところが欧米諸国の黒船がやってきて、日本も重火器に対応した防御施設を構築する必要性に迫られたのでした。そこで手っ取り早く導入されたのがフランス流の築城術です。近づく敵に十字砲火を浴びせることが出来ることと、死角をなくしているのが特徴です。

 函館五稜郭は元治元(1864)年に完成。その四年後の明治元年に完成したのが長野県臼田町田口の龍岡城五稜郭です。この二つの五稜郭のモデルになったのはフランスはリール市内に在るヴォーバン城で、規模としては本家のそれが稜の先端間がほぼ600mに対して、函館が300m。信州龍岡は150mです。


 若年寄・老中格・陸軍奉行・陸軍総裁などの要職を勤めたのが龍岡藩藩主松平乗謨(のりたか)は洋式の築城法・軍事技術等を学ぶ環境に恵まれていました。乗謨は、三河の奥殿から封地を多く所有していた信州佐久へと陣屋を移し、五稜郭を建設しました。そして、それまで日本人に馴染みのなかった西洋式の近代的訓練を城内で繰り返し、末端の一兵卒から戦力を高めて行こうとしたと言われています。

 当時の遺構は、堀と石垣、屋敷の台所などわずか。城址は小学校の敷地として利用されています。

 大給松平氏の領地は、本領三河四千石と信州領一万二千石。築城のきっかけは、文久三年(1863)正月、藩主乗謨が、大藩頭(おおばんがしら)に登用された折り、本領の手狭さから、信濃領に本領を移し、併せて新陣屋五稜郭の建設を幕府に申請し許可されたことに依る。翌元治元年(1864)三月に着工、慶応三年(1866)四月に完成。規模は函館の約5分の1でした。城内の建造物は、大給松平氏が城を持てない「陣屋格」であったため、天守などの防御施設はなく、大手門と通用門、藩主の御殿・藩士の小屋・藩屋・太鼓桜・火薬庫の他、歴代藩主三名を祀った三社様・稲荷社などがありました。が、ご多分に漏れず、明治四年、明治政府の藩籍奉還・稜郭取り壊し令により、龍岡藩(田野口藩を幕末直前に改名)五稜郭は地所、石垣はそのままとし、建物は入札払下げとなり、残りは取り壊されてしまいました。

 残された石垣を見ますと、大手橋付近の重ね積み(布積み)・砲台下の石の配列を菱形にした「亀甲積み」など、巧みに石を配し優れた造形美を示しています。最後の藩主乗謨は、明治時代、恒と改名し再出発。元老院議官であったとき、佐野常民(九州佐賀藩出身)と共鳴して日本の「日本赤十字社(当時博愛社)」の設立に貢献しました。因みに日本赤十字社の創立記念日は明治10年5月1日。