鳥居峠 |
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鳥居峠鳥居峠1362m・上信国境。江戸時代北信濃の種油が大量輸送されたことから油(あぶら)峠とも呼ばれた。四阿山の遥拝所があり、鳥居が設けられたことからその名がつけられた。戦国時代真田氏軍用道路。巨岩奇岩が点在する。シリーズ嬬恋村の文化と自然 華童子(げどうじ)の宮跡古く吾妻山(四阿山)は、我が国固有の宗教である神道と仏教(密教)との融合によって成立した“修験道”の霊山であった。その参道は、鳥居峠から上信国境を尾根伝いに辿る道が本道であった。その険しい参道を、峠から4キロ程登った標高約1800メートル地点に、朽ち果てた宮跡がある。“華童子”の宮跡である。華童子について、文禄5年(1596)の『吾妻山宮修理』の屏書には「蓮華童子院別当良叶(れんげどうじいんべっとうりょうきょう)」の墨書があるど言う。従って、詳しくは蓮華童子の事であろう。そして、童子とは如来(釈迦)の王子または一番弟子に当たる菩薩の別名であり、また、菩薩や明王の一族とされるものでもある。したがって童子こと蓮華童子とは、菩薩又は明王級の仏(仏像)ということになる。 ところで、密教では金剛童子を本尊として祀り、疾病・除災.安産などのために祈濤(きとう)する修法があった。このようなことからすると、多分、吾妻山の華童子の宮には蓮華童子を本尊として祭り、御師とされる神職又は社僧や行者がおり、加持祈禧などの宗教活動が行われていたものと思われる。 霊山吾妻山山頂に“白山権現”か勧請されたのは『吾妻山縁起』によれば「養老2年(718)」とされる。しかし、それは確かなことではない。おそらく、修験道が宗教として確立した中世以降のことであろう。 山頂に白山権現が勧請され霊山としての信仰が高まると、山頂の奥宮に対して山麓には早宮が設けられるようになるが、その奥宮と里宮の間には“中社”が必要となる。華童子の宮は、おそらくその中社的な存在であったであろう。 過日、資料館横沢貴博主査とその華童子の宮を訪ねた。そこには、幅1、2メートル高さ90センチ程の石塁に囲まれた宮跡や灯籠・石柱などがその残骸を曝していた。厳しい自然環境の中にかつてこの施設が霊山吾妻山信仰の本拠地であったことを物語っている。 松島榮治先生の講義録より |
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