松島榮治先生の論文集
■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
@黒色磨研注口土器
A敷石住居跡
■修験道関係資料の調査
@万座温泉の“礫石経”
A華童子宮跡
B三原出土の経筒
C今宮白山権現
D熊野神社の奥ノ院
■埋没村落「鎌原村」の調査
@埋没した鎌原村
A鎌原村の発掘
B発掘調査の成果
■峠を越えての文化の流入
@縄文文化繁栄の背景
A修験道隆盛の背景
B鎌原村の生活文化の背景
■おわりに
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@万座温泉の“礫石経”
万座の温泉涌出地の脇に建つ薬師堂から、遊歩道を山頂方向に数10メートルほど進むと、道沿いに「熊四郎洞窟」とされるものがある。
かつて、ここから弥生式土器が発見されたと言い、これにより、嬬恋村ではこの地を村の史跡に指定した。ところで、筆者等は平成12年夏、ここを実地踏査した。その結果、洞窟とされるものは、実は“岩陰”と呼ぶにふさわしく、また土器片は全く認められなかった。しかし、それに代わって全く予期されないものの発見があった。
発見されたものは、人頭大をやや下回る8個の大小不揃いの自然石に墨書された、いわゆる“礫石経”であった。この礫石経は、その後の検討によって解読に成功し、般若経の中にあって密教教典の代表的なものとされ、しかも、修験道においても重要視されていた“理趣経”であることが判明し、発見されたものは、理趣経全体の約1割であることも分かった。
なお、ここに理趣経が書写され奉納された時期については、紀年銘が認められなかったため残念ながら明らかではない。しかし、不揃いの自然礫を使用し、これに墨書されていること、さらに字体の特徴などからして、中世期のものと推定された。
古く、吾妻山(四阿山)から白根山に至る連峰を“万座山”と呼んでいた。その万座山の深山幽谷は、いわゆる山岳信仰の一拠点でもあり修験道信仰の霊山でもあった。
このため、修験道の行者である修験者(山伏)の跋渉するところであったろう。そうした修験者が万座温泉の涌出や噴気を当然見逃す筈はない。そして、その異様な光景に神仏の霊気を感じたに相違ない。ここに、理趣経を礫石に書写し供養・奉納したものと考えられる。
なお、万座とは“満願”のことでもある。もしかしたら万座の湯は、修験者の厳しい修行の達成の場であったかも知れない。
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