はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
松島榮治先生の論文集

■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
 @黒色磨研注口土器
 A敷石住居跡

■修験道関係資料の調査
 @万座温泉の“礫石経”
 A華童子宮跡
 B三原出土の経筒
 C今宮白山権現
 D熊野神社の奥ノ院

■埋没村落「鎌原村」の調査
 @埋没した鎌原村
 A鎌原村の発掘
 B発掘調査の成果

■峠を越えての文化の流入
 @縄文文化繁栄の背景
 A修験道隆盛の背景
 B鎌原村の生活文化の背景

■おわりに

A華童子宮跡

 『加沢記』によれば、「……本朝の元祖にて井弉諾の尊を白山権現と敬いたてまつる。信州浅間、吾妻屋両山の権現御一躰なり。−略−上州の里宮は、吾妻郡三原の郷にぞ建給う。」とある。
 これによれば、吾妻山(四阿山)に白山権現を祀ったことは確かであり、吾妻山は修験道の霊山でもあった。この霊山吾妻山への南側すなわち鳥居峠からの参詣道を、尾根に沿って進み、標高1,800前後の吾妻山中腹に「華童子宮跡」はある。その名称については、“童子”は、如来の王子または1番弟子である菩薩の別名とみられる。“華”については明らかではないが、修験道では入峰・出峰の行事を蓮華会と言ったと言う。そうだとすると、華は蓮華会の華であり、華童子宮とは、蓮華会のための童子の常駐する場所と考えられる。それはまた、山頂にある奥ノ院と、信者達の生活の場所に祀られた里宮との中間に位置するため、中宮的性格をもったものとも思われる。
 いずれにしろ、この宮は、人里を離れ人を容易に寄せつけない山岳高冷な厳しい自然環境の地にあって、現在、廃嘘となっているが、厚さ1.2メートル、高さ90センチの石塁に囲まれた建物跡と灯籠の石柱などが遺存し、修験道信仰の激しさと盛況の様を伝えている。
 なお、この宮跡の手前“賽の河原”とされる地には、大きいもので直径10数メートル、高さ5メートルを数える「積み石塚」状の構築物が3カ所にわたって確認された。華童子宮との関連は今のところ不明であるが、多分“経塚”であろう。
 吾妻山の中腹標高1,800メートルの華童子宮の地は、白山修験道信仰の一拠点であったことがうかがわれる。