松島榮治先生の論文集
■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
@黒色磨研注口土器
A敷石住居跡
■修験道関係資料の調査
@万座温泉の“礫石経”
A華童子宮跡
B三原出土の経筒
C今宮白山権現
D熊野神社の奥ノ院
■埋没村落「鎌原村」の調査
@埋没した鎌原村
A鎌原村の発掘
B発掘調査の成果
■峠を越えての文化の流入
@縄文文化繁栄の背景
A修験道隆盛の背景
B鎌原村の生活文化の背景
■おわりに
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B三原出土の経筒
明治44年、三原の黒岩繁太郎氏は、同所上ノ山の畑地で浅間石で作られた高さ約30センチの筒形の容器に収められた経筒を発見した。経筒は、銅板製鍍金の円筒形で、底は平底、蓋は無紐の被蓋式盛蓋で、総高は10.5センチである。この中に発見の当時には教典の残塊があったと言う。
筒身には
十羅刹女 越前州平泉寺
(梵字)奉納大乗妙典六十六部聖
三十番神 享禄三天今月日
弘朝之
の刻文がある。十羅刹女三十番神は、法華経の守護神であり、梵字は、白山の本地仏である十一面観音を表している。その意とするところは、享禄3年(1530)、越前国(福井県)の白山修験道の中心道場である平泉寺の民間布教者(聖)が、法華経(大乗妙典)六十六部を書写して奉納したとのことである。 この背景は、おそらく一族の頂点に立って修験道によってこの地を支配していた下屋氏が、白山修験の聖を招いて、現世利益・追善供養のため、法華経を書写して経筒に収めて、経塚を構築したものと思われる。白山修験道信仰の盛況を示すものであろう。
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