はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
松島榮治先生の論文集

■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
 @黒色磨研注口土器
 A敷石住居跡

■修験道関係資料の調査
 @万座温泉の“礫石経”
 A華童子宮跡
 B三原出土の経筒
 C今宮白山権現
 D熊野神社の奥ノ院

■埋没村落「鎌原村」の調査
 @埋没した鎌原村
 A鎌原村の発掘
 B発掘調査の成果

■峠を越えての文化の流入
 @縄文文化繁栄の背景
 A修験道隆盛の背景
 B鎌原村の生活文化の背景

■おわりに

@埋没した鎌原村

 天明3年(1783)浅間山の噴火は、旧暦4月9日から始まったと伝えている。その後、噴火は日毎に激しさを増し、7月6日からは一段と激しくなり、殆ど絶え間のない噴火となり、ついに8日(新暦8月5日)にはクライマックスの状態に達したと言う。

 鎌原村(現吾妻郡嬬恋村鎌原)を中心とした浅間山北麓の悲劇はこの時に起こった。すなわち、4ツ時(午前10時)、山頂火口の壁に付着していた半固結状態の溶岩が、引きちぎられて火口より吹き上げられた。その岩塊は、浅間山北麓の斜面に落下し、付近の土石を巻き込んで“なだれ”のような状態となって高速で流れ下った。これによって、浅間山北麓の村々には大きな被害が発生した。中でも鎌原村の被害は大きく、一瞬にして地中の村と化してしまったのである。

 地中の村と化した鎌原村について、その実態を示す史料は、災害の際、殆ど消失してしまった。したがって、天明3年の災害時における鎌原村の姿について不明のことが多い。しかし、ここに敢えてその姿について推測を試みると。

 ・戸数 宝暦13年(1763)の観音堂の須弥壇を造った際の「奉賀連名帳」によれば、村の総戸数は118戸と推定される。また、文化12年(1815)の観音堂参道入り口の供養碑によれば、罹災時の戸数は95とされる。したがって、天明3年災害時の鎌原村の戸数は、100戸前後と推定される。

 ・人口 安政4年(1860)、山崎金兵衛が記した『浅間山焼荒之日并其外家并名前帳』によれば、犠牲者477人、生存者93人とある。したがって、災害時の鎌原村の人口は、一応570人とみられる。しかし、異なった数字をあげている史料もある。

 ・村の機能 農業に不向きな標高900メートル前後の浅間山北麓の地に、戸数100戸前後、人口五百数十人の大型村落が形成されたことは意外である。しかし、この地は、上州と信州を結ぶ交通の要所にあり、加えて、200頭前後の馬が飼育されていることからすると、単なる山村ではなく、宿場的機能をもった村落と推定される。