松島榮治先生の論文集
■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
@黒色磨研注口土器
A敷石住居跡
■修験道関係資料の調査
@万座温泉の“礫石経”
A華童子宮跡
B三原出土の経筒
C今宮白山権現
D熊野神社の奥ノ院
■埋没村落「鎌原村」の調査
@埋没した鎌原村
A鎌原村の発掘
B発掘調査の成果
■峠を越えての文化の流入
@縄文文化繁栄の背景
A修験道隆盛の背景
B鎌原村の生活文化の背景
■おわりに
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A修験道隆盛の背景
嬬恋村の北部を画する吾妻山(四阿山)から白根山に至る連峰の嬬恋村側を、古く”万座山”と呼んだが、この地は前に記したように深山幽谷で、修験道の霊山であり行者の跋渉する所であった。
ところで、ここに隆盛した修験道は、越前の行者泰澄に始まるとする白山修験道に深く係わると思われる。白山修験道は、その後、加賀・越前・美濃の三馬場が成立し、ここを拠点として、熊野修験道に次ぐ勢力を誇った。そうした中で平泉寺は越前馬場の中心として独自な展開を見せたとされるがその実態については必ずしも明らかでない。
ところで、嬬恋村地域の修験道関係の遺構・遺物は、三原出土の経筒、今井区の西窪淳氏所有の石造塔の銘文および『加沢記』の記事などからしても、白山修験道との関わりは否定できない。嬬恋村地域への修験道の波及は、北陸地域を中心に、信越にも広がりをみせた越前馬場に拠点をもった白山修験道が、上州と信州との間に立ちはだかる万座山とされる連山を越えて波及してきたものと思われる。
なお、その主要ルートは、14世紀に書かれた『神道集』「昔毛無通奥大道」・「碓井手向□毛無二峯關居」とあるように、万座川を逆上り毛無峠を経由し須坂・飯山方面に至る“毛無道”であったと予想される。毛無峠を経由する毛無道は、“修験道ルート”の可能性がある。
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