はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
松島榮治先生の論文集

■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
 @黒色磨研注口土器
 A敷石住居跡

■修験道関係資料の調査
 @万座温泉の“礫石経”
 A華童子宮跡
 B三原出土の経筒
 C今宮白山権現
 D熊野神社の奥ノ院

■埋没村落「鎌原村」の調査
 @埋没した鎌原村
 A鎌原村の発掘
 B発掘調査の成果

■峠を越えての文化の流入
 @縄文文化繁栄の背景
 A修験道隆盛の背景
 B鎌原村の生活文化の背景

■おわりに

おわりに

 嬬恋村は山奥山間の厳しい自然環境の中にある。このため現状認識としては、潜在的に僻地意識ががあり、このような地域では、歴史的に大した発達はなく、また、閉された社会であったとする認識が強い。

 ところで、僻地とは『広辞苑』によれば、「都に遠い、へんぴな土地。かたいなか」とある。また、『百科事典』などによると、交通が不便で、都会地から隔離され、経済的にも文化的にも恵まれない状態に置かれている所とある。

 しかし、このような僻地の概念は、あくまで現状での認識であって、歴史的に見た場合、現在僻地だからと言って、過去の全てが僻地だったとは言えないのではないか。

 「都に遠い……」とかの条件は、中央集権的政治・社会体制下のことであり、都の定まらなかった時代、あるいは、地方分権的な政治・社会体制下にあっては、現在僻地とされる地域が、必ずしも僻地であったとは限らない。まして、交通に不便と言うことは、あくまで、現在の交通体系網や交通手段などからのことであって、それがそのまま過去に当てはまるものではない。さらに、一概に僻地は経済的にも文化的にも恵まれない所とすることにも問題がある。

 現在、僻地だからといって、過ぎ去った長い過去の時代の全てを僻地だったとは決して言えないのではないか。

 僻地とされる地域には、僻地とされる現在とは異なる歴史があり文化があるのであり、現在、僻地であるからといって、過去の歴史の全てを僻地的概念によって、読史することは妥当ではないだろう。

 事実、僻地とみられる嬬恋村地域において、縄文時代には、周辺地域の文化を積極的に吸収し、稀にみる卓越した縄文文化が展開したのである。

 また、中世にあっては、北陸地方を中心に盛んとなった白山修験道が波及し、単に宗教面ばかりでなく政治・社会にも影響し独特な政治・社会が形成されたのである。

 さらに、天明3年浅間山噴火によって埋没した鎌原村の発掘調査の所見によれば、江戸や上方の文化を摂取し、草莽の文化が花開いたのであった。

 いかに山奥山間の厳しい自然環境にあっても、その地が、政治・社会・文化的に必要とあれば、道は拓かれ、そして、峠を越えての文化の流入はあったのである。周囲を取り巻く険しい山並みも、そして厳しい気象条件も、歴史の展開にはさして支障はなかったのである。地域の歴史展開にとって、峠を越える道の果たす役割は極めて大きかったのである。

(本稿は、平成16年2月21日、群馬県立文書館に於いて実施された群馬県地域文化研究協議会平成15年度大会記念講演会の内容を整理し、補筆したものである。)