はじめに 発掘記録 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然1

001.鵺ぬえの声を聞く
002.象のいた村
003.赤米の栽培
004.明礬の稼ぎ
005.ヒデのあかり
006.消えた浅間大明神
007.馬鈴薯の栽培
008.熊野神社の大杉
009.硫黄の採掘
010.黒色磨研の注口土器
011.大笹関所
012.三原出土の経筒
013.シナ科のサユミ
014.高原の“舞姫”
015.石戈の発見
016.嬬恋駅周辺のにぎわい
017.鹿のいる風景
018.郷土料理“クロコ”
019「大笹の湯」引湯跡
020.天狗の麦飯
021.鎌原の郷倉ごうぐら
022.炭を焼く
023.山の呼び名
024.今井の宝篋印塔
025.門貝の熊野神社
026.袋倉の廻国供養碑
027.浅間嶽下奇談

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004.明礬の稼ぎ

 明礬(みょうばん)は、白色無定形の粉末で、ものを引き締める性質があり、毛皮をなめしたり、止血剤や染色などの薬品として、広く用いられている。

 嬬恋地域はその産地で、JR万座鹿沢口駅南の切り立った断崖の断面に、褐色がかった横縞状の薄い層が見られるが、それが明礬を含む層だと聞く。

 また、鎌原地内には明礬沢と呼ばれる沢があり、子供の頃、この沢で岩肌に付着した明礬を採取し、文字のアブリ出しなどで遊んだ経験者も多い。

 大前の明礬屋の屋号をもつ滝沢ときさん宅の祖先藤吉が明礬採掘の請負を始めたのは、江戸時代の後期にあたる寛政9年(1797)のことであった。

 以来、滝沢家は伝左衛門−米吉と明治の初めにいたるまで、明礬採掘の請負に精を出す。この間安政4年(1857)の年間出荷量は50駄にも及び、その販路は群馬は勿論、埼玉県、山梨県、長野県、新潟県にもおよび、上州における代表的な明礬屋としてその地位を固めた。

 しかし、明礬採掘の請負事業は、相場の著しい変動や、幕府の会所による統制などで、その経営は決して楽なものではなかったらしい。

 ところで、安政4年大前村の古文書によれば、大前村の1ヵ年の産物などの売上高は、明礬=200両位、湯花=10両位、松板類=20両位、下駄類=30両位、木鉢類=10両位、和薬類=10両位、繭=80両位とあり、合計360両のうち、明礬の売上が56%を占めている。いかに明礬が主要の産物であったかを示している。

 江戸時代の後期、嬬恋村地域において、明礬を稼ぎとする家は、大前の滝沢家だけではなかった。鎌原や大笹にもそれを家業にしていた家のあった事を古文書は伝えている。嬬恋村にとって、明礬稼ぎの経済的効果は決して少なくなかった。