はじめに 発掘記録 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然1

001.鵺ぬえの声を聞く
002.象のいた村
003.赤米の栽培
004.明礬の稼ぎ
005.ヒデのあかり
006.消えた浅間大明神
007.馬鈴薯の栽培
008.熊野神社の大杉
009.硫黄の採掘
010.黒色磨研の注口土器
011.大笹関所
012.三原出土の経筒
013.シナ科のサユミ
014.高原の“舞姫”
015.石戈の発見
016.嬬恋駅周辺のにぎわい
017.鹿のいる風景
018.郷土料理“クロコ”
019「大笹の湯」引湯跡
020.天狗の麦飯
021.鎌原の郷倉ごうぐら
022.炭を焼く
023.山の呼び名
024.今井の宝篋印塔
025.門貝の熊野神社
026.袋倉の廻国供養碑
027.浅間嶽下奇談

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021.鎌原の郷倉

 江戸時代の領主にとって、農民はその体制と権力を維持する土台であった。そこで領主側は農民を保護するための種々の政策をとった。ことに、その中期以降になると、飢饒や災害に備えて、穀物を並日段から貯えておく、「備荒貯穀」の制度を施行した。その具体的な施策の1つに郷倉の制度があった。

 郷倉は、原則的に村(郷)ごとに設置され、収穫期になると前年までの分を詰め替え、その年の貯穀分を加えた。その年の貯穀分は、普通1戸に付き、稗3升程とされた。これを、飢饉・災害の際に放出し、困窮した農民を救済することにした。

 鎌原神社の境内に遺る郷倉は、村内唯一のものであり、郡内にも他に例がない。また、県内に現存するものは僅かに数例に過ぎない。

 その鎌原の郷倉は、間口2間余(395センチ)、奥行き1間半程(308センチ)、壁の厚さ8寸(24センチ)の茅葺き荒壁の土蔵造りである。一般の土蔵に比べると、小型で屋根の傾斜がきついのが目立つ。創建されたのは、他の地の文献史料などからして、天明8年(1788)頃と思考される。

 江戸時代後期の、打ち続く飢饉や災害の中、この鎌原村の郷倉が、どのように役立ったかについては明らかでない。ところで、前橋にある県指定史跡、「上泉の郷倉」の古文書には、「此の籾、〆82石、天保7年の困窮之節、右籾不残、困窮人貸付」とあることにより、この鎌原村の郷倉も、それなりの役割を果たしたものと思われる。

 しかし、その反面、村内の干俣村では、郷倉を設置していながら、天保7年の飢饉の際、困窮した農民が、夜逃げ同様に離村し、天保6年の家数百軒余り、人数580余人が、天保9年には家数61軒、人数346人と激減したとする事実がある。

 封建社会の基本的構造に根ざす、農村の荒廃と恐慌は、このような郷倉をもってしても、殆ど解決されなかったことを示している。