はじめに 発掘記録 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然1

001.鵺ぬえの声を聞く
002.象のいた村
003.赤米の栽培
004.明礬の稼ぎ
005.ヒデのあかり
006.消えた浅間大明神
007.馬鈴薯の栽培
008.熊野神社の大杉
009.硫黄の採掘
010.黒色磨研の注口土器
011.大笹関所
012.三原出土の経筒
013.シナ科のサユミ
014.高原の“舞姫”
015.石戈の発見
016.嬬恋駅周辺のにぎわい
017.鹿のいる風景
018.郷土料理“クロコ”
019「大笹の湯」引湯跡
020.天狗の麦飯
021.鎌原の郷倉ごうぐら
022.炭を焼く
023.山の呼び名
024.今井の宝篋印塔
025.門貝の熊野神社
026.袋倉の廻国供養碑
027.浅間嶽下奇談

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022.炭を焼く

 この時期、遠くの山間のあちこちから、一筋の白い煙の立ち昇るのをよく見た。炭を焼く煙である。幼い頃の心に残る風景でもある。

 先日、鎌原の土屋博義さんにお願いし、炭の窯出しの様子をみせて頂いた。小雪の舞う寒い日であった。訪れた際、窯口はすでに開けられていた。中を覗くと薄く灰に覆われた炭が、所狭しと並び、酸味の利いたキナ臭い匂いと、顔面に当たるナマ暖かい空気が、昔日の想いを彷彿として蘇らせてくれた。

 わが国で本格的な炭が焼かれ使われるようになったのは、古墳時代のことと推定される。当初は製鉄の際の原料の1つとして利用されたが、時代が進むにしたがって、料理や暖房の燃料に使われるようになった。

 特に、近世になって江戸をはじめ各地に都市が発生し発展すると炭の需要は高まった。他方、商品経済の発展は、日常生活の中で貨幣を必要としたが、農業生産の低い山間部の住民にとっては、炭焼などの山稼ぎは、現金収入源として重要であった。

 嬬恋村で、本格的に炭を焼き、始めたのは明らかでない。しかし、江戸時代の村々の様子を記した『書上明細書』によれば、現在の大字にあたる各村の殆どが「薪炭乏(とぼ)シカラズ」とか、男の稼ぎの1つに炭焼きをあげている。そして明治初年の『物産取調書上帳』によれば、門貝村=炭250駄、干俣村=炭200駄、大笹村=炭113駄などの記事が散見される。

 これをうけて、大正3年には村の勧業指導の一環として、「木炭同業組合」が結成され、以来、その生産に弾みがつき、昭和初期の年産約18,00トンをピークに40年代にかけて盛んに生産が続けられた。その結果、嬬恋村は木炭の主要産地として、不動の地位を築いた。

 かつて、村の経済と村民の生活を支えた製炭業は、液体・気体燃料の流行によって、すっかり衰退してしまった。しかし、歴史的遺産として、その技術はなんとか後世に伝えたいものである。まさかの有事に備えても。