はじめに 発掘記録 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然1

001.鵺ぬえの声を聞く
002.象のいた村
003.赤米の栽培
004.明礬の稼ぎ
005.ヒデのあかり
006.消えた浅間大明神
007.馬鈴薯の栽培
008.熊野神社の大杉
009.硫黄の採掘
010.黒色磨研の注口土器
011.大笹関所
012.三原出土の経筒
013.シナ科のサユミ
014.高原の“舞姫”
015.石戈の発見
016.嬬恋駅周辺のにぎわい
017.鹿のいる風景
018.郷土料理“クロコ”
019「大笹の湯」引湯跡
020.天狗の麦飯
021.鎌原の郷倉ごうぐら
022.炭を焼く
023.山の呼び名
024.今井の宝篋印塔
025.門貝の熊野神社
026.袋倉の廻国供養碑
027.浅間嶽下奇談

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023.山の呼び名

 最近、地名もまた文化財であるという認識が高まり、各地でその保存や研究が盛んに行われている。山の呼び名ももちろん地名の1つである。

 嬬恋村には、周囲に高い山々が連なり、その中には、白根山・四阿山・そして浅間山など、名山とされるものが多い。

 ところで、その呼び名が、古くから地元で言われたものと、異なってしまったものが目につく。例えば、明治17年の群馬県管内全図によれば、四阿山は吾妻山であり、角間山は小在池山、そして黒斑山は三ッ尾根山であった。特に、吾妻山や三ッ尾根山については、今から300年も前に作られた『元禄国絵図』でも、「あつま山」「ミつを根み禰」と記し、信濃国にても同名と注記している。

 このようなことから、どうやら、吾妻山、小在池山、そして三ッ尾根山とされる山の呼び名は、すでに江戸時代に、地元上野国はもちろん、現在の嬬恋村ばかりでなく、隣接する信濃国においても、それを認める呼び名であったらしい。

 それでは、こうした山の呼び名は、どのような経過で、現在の呼び名に変わってしまったのだろうか。大正元年、帝国陸地測量部が作成した地図では、四阿山(吾妻山)、小在池山(角間山)、黒斑山(三ッ尾根山)と、括弧内に別名を記し、両名を併記している。

 しかし、昭和48年、国土地理院で発行した地図では、現在の呼び名で統一している。どうやら昭和40年代に入って、現行の呼び名となったらしい。人は、たかが山の呼び名というかもしれない。しかし、呼び名には、それが所在する地域の、故事来歴が反映されている。吾妻山とされる呼び名には、著名な日本武尊の伝承が、見事に凝縮されているのである。

 われわれの祖先が故あって名付け、そして、言い慣らした呼び名が、変わってしまった。その理由は明らかではない。しかし、その事実だけは、銘記しておく必要がある。山の名もまた立派な文化財なのである。