はじめに 発掘記録 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然1

001.鵺ぬえの声を聞く
002.象のいた村
003.赤米の栽培
004.明礬の稼ぎ
005.ヒデのあかり
006.消えた浅間大明神
007.馬鈴薯の栽培
008.熊野神社の大杉
009.硫黄の採掘
010.黒色磨研の注口土器
011.大笹関所
012.三原出土の経筒
013.シナ科のサユミ
014.高原の“舞姫”
015.石戈の発見
016.嬬恋駅周辺のにぎわい
017.鹿のいる風景
018.郷土料理“クロコ”
019「大笹の湯」引湯跡
020.天狗の麦飯
021.鎌原の郷倉ごうぐら
022.炭を焼く
023.山の呼び名
024.今井の宝篋印塔
025.門貝の熊野神社
026.袋倉の廻国供養碑
027.浅間嶽下奇談

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025.門貝の熊野神社

 門貝の地名は、“カドのカイ”で、カドは出入口、カイはカイトのカイで小集落を意味する。従って、カドカイは、他地域との出入口にある小集落ということであろう。

 事実、14世紀に書かれた『神道集』には、「昔、毛無道は、奥の大道」とか「碓井・毛無の二峰に関を構え」などの記事がみられる。万座川を逆上り、門貝を経由する“毛無道”は、上州と信州方面を繋ぐ道として、重要であった。門貝はその上州側の拠点的集落としての機能を果たしていたものとみられる。

 この道筋に沿った門貝の鳴尾に、熊野神社が祀られるようになったのは、鎌倉時代の文保3年(1319)の頃で、今から680年も前のことであったらしい。

 熊野神社の背後の急峻な斜面に岩窟がある。この岩窟の壁面には、諸仏の尊像を表すとされる“種子(しゅじ)”が、梵字(古代インド文字)で刻まれている。正面にあたる壁面には大日如来を示す種子が、左壁には仏種子の下に「□保三年大才己未□月上旬」、右壁の仏種子の下には「太郎」と達筆に記している。

 また、神社の境内入口にある高さ3メートルもの巨石の上面には雄勁な筆法で、弥陀三尊と他に二仏の種子が刻まれている。巨大な板碑に見合うもので岩窟遺構と何らか関係を有するものであろう。

 大和国(奈良県)の大峰山の熊野神社を本社とする信仰は、平安時代の末から盛んとなった。その頃、熊野は山岳に籠って修業することを目的とする修験道の霊場としても知られ、その信仰は、熊野御師(山伏)とされる人たちによって、各地へと広められた。

 毛無道の道筋にあたる門貝の地は、通行上の要所でもあり、加えて、吾妻山(四阿山)や白根山など深山幽谷の霊地を控えていた。そこに、山伏の修業の拠点が設置され、やがて、熊野神社が分社されたのであろう。神社の背後の岩窟遺構や入口の巨石に刻まれた仏種子は、その隆盛を物語っている。