はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然2

028.産馬の業
029.浅間山溶岩樹型
030.大笹駅浅間碑
031.万座温泉事始め
032.風土博物館の構想
033.小串鉱山探訪の記
034.中居屋重兵衛
035.鹿沢温泉繁盛記
036.鬼押出しの溶岩流
037.湯の丸レンゲツツジ群落
038.盛だった村芝居
039.無量院の五輪塔
040.抜け道の碑
041.華童子げどうじの宮跡
042.歴史の道「毛無道」
043.円通殿
044.今宮白山権現のこと
045.芭蕉の句碑
046.今井東平遺跡出土の土偶
047.延命寺の碑
048.田代地区の両墓制
049.ホタルのひかり
050.『片栗粉』の商標
051.帰ってきた小仏像
052.万座温泉の『礫石経』
053.東平遺跡の敷石住居跡
054.浅間山について

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028.産馬の業

 鎌原区には素朴ではあるが珍しい建物がある。屋根は寄棟造り風に萱で葺き、周囲は壁はなく、粗削りの柱などが露出したもので地元では“オヤ”と呼んでいる。冬から春にかけての馬の飼料(秣)を貯蔵する施設であったという。かつてはどこの家にもあったと言うが、現存するものは3棟に過ぎない。

 江戸時代以降の庶民の生活の中にあって、馬の果たす役割は大きかった。肥料や収穫物の運搬などの農作業。薪や炭など生活物資の運搬、また近在の市場への商品輸送。そして駄賃稼ぎなど多様な役割を果たした。このため馬は同じ屋根の下で人と一緒に暮らしていた。

 江戸時代にこうした馬が、どのくらい飼われていたかについては明らかでない。明治10年の頃書かれた『上野国郡村誌』によると、邑楽郡を除く上野国には、3万5518頭の馬数が記されている。この内訳は、群馬郡の6072頭が最も多く、それに次いで勢多・吾妻郡と続いている。

 ところで、この馬について、興味のひかれるのは、雄馬と雌馬との割合である。すなわち、群馬郡では雄馬の占める割合は84.4%と比率が高い。これに対して、吾妻郡では雌馬が、96.1%で圧倒的に多い。勢多郡は、その中間で雄馬と雌馬の割合は、ほぼ同数である。

 こうした中で、記載漏れの門貝村を除く、嬬恋村の馬の総数は567頭で、その全てが雌馬とされているのが印象的である。

 嬬恋村で、このように雌馬のみ飼育される理由について、物資輸送の際、雌馬は性質がおとなしいため、1人で2・3頭引き連れることができるとか、飼料が少なくてすむことなどが上げられている。

 しかし、それにも増して大きな理由は、仔取りをすることにあったのではないか。現金収入のゆない山村においては、「吉田芝渓(しけい)」の言う”産馬の業”が成立していたのではないか。鎌原区に僅かにのこるオヤは、そうした産馬の歴史の一端を、今日に伝えるものであろう。