はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然2

028.産馬の業
029.浅間山溶岩樹型
030.大笹駅浅間碑
031.万座温泉事始め
032.風土博物館の構想
033.小串鉱山探訪の記
034.中居屋重兵衛
035.鹿沢温泉繁盛記
036.鬼押出しの溶岩流
037.湯の丸レンゲツツジ群落
038.盛だった村芝居
039.無量院の五輪塔
040.抜け道の碑
041.華童子げどうじの宮跡
042.歴史の道「毛無道」
043.円通殿
044.今宮白山権現のこと
045.芭蕉の句碑
046.今井東平遺跡出土の土偶
047.延命寺の碑
048.田代地区の両墓制
049.ホタルのひかり
050.『片栗粉』の商標
051.帰ってきた小仏像
052.万座温泉の『礫石経』
053.東平遺跡の敷石住居跡
054.浅間山について

■サイトマップ
■リンク
■トップページへ戻る

042.歴史の道「毛無道」

 「ヶ」とされる古語は樹木を表わしていた。吾妻山と万座山の鞍部を嬬恋から望見すると、寒風が吹き抜けるためか笹原の青さのみ目立ち樹木の繁茂している様子は見られない。いわゆる“毛無し”なのである。古くそこを「毛無峠」と呼び、それを通過する道を「毛無道」と言った。

 毛無道は、門貝を起点とし仁田沢を経由し、万座川から不動沢に沿って進み、毛無峠を越えて長野県の高井郡地方に通ずる古道であった。その史料としての初出は、14世紀(南北朝時代)にまで遡る。「神道集」によれば「昔ハ毛無通(道)ハ、奥ノ大道」とか「碓井ノ手向、(毛)無ノ二峯ニ関ヲ居ヘテ」などとあり、毛無道が関東地方と信越地方を結ぶ道として古くから重要であったことが分かる。

 江戸時代に入っても、毛無道は上州と信州を結ぶ道の1つとして重要な役割を果たしていた。ところが、寛文2年(1662)大笹に関所が設けられると、幕府は交通政策上、毛無道を通行禁止とした。しかし、この道は時間と経費の節減を図って半ば公然と利用されていたようである。

 このため、幕府は天和2年(1682)堅くこの道の通過を禁止し、その監視を干俣村に命じ違反者には厳罰に臨むこととした。しかし、このような厳重な監視下においてもこの道の利便性は捨てきれず、あえてこの道の利用を試みる者もあった。そこで、大笹関所では路上に堀割りや矢切を設置して通行禁止の態度を益々固めた。

 他方、幕府のこうした交通政策も、18世紀以降の商品経済の発展など時代の成り行きには抗しきれず、次第にその通行禁止策も形骸化し、明治元年大笹関所が廃止されるとその利用も自由となった。

 しかし、その後の交通機関の発達と道路網の整備はこの道を次第に衰退させ、昭和期に入ってからは、僅かに小串鉱山への道としてその片鱗を残すのみとなった。