はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然3

055.万座のゴヨウマツ
056.蛇の飾りの付いた土器
057.瀬戸の滝と不動さん
058.東平の赤色塗彩土器
059.常林寺の本堂
060.鳴尾の梵字岩
061.“丁石”百番観音像
062大前という地名
063.天仁元年の大噴火
064.月待ちの夜
065.吾妻山登頂の記
066.鎌原城の今昔
067.嬬恋村の獅子舞
068.種苗管理センター嬬恋農場
069.袋倉の獅子舞
070.近代文学の中の嬬恋その1
071.近代文学の中の嬬恋その2
072.大前の獅子舞
073.干川小兵衛のこと
074.浅間押し供養碑
075.黒岩長左衛門の事績
076.鎌原の獅子舞
077.大笹の獅子舞
078.下屋家文書
079.アンギンに挑む
080.嬬恋村の古代

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059.常林寺の本堂

 常林寺は、吾妻郡を代表する名刹である。その歴史は古く、少なくとも13世紀前半(南北朝初期)にまで遡るようである。しかし、その後の変動の世相の中に衰微し、確固たる社会的地位を築くのは、中興の期とされる今から四百数十年前の享禄年間の事とされる。

 その中興された常林寺の伽藍は、天明3年の“浅間押し”によって跡形も無く消失してしまった。しかし、奇しくも明治43年、川原湯の吾妻川河原で発見された常林寺の梵鐘には、名刹に相応しいものがある。

 災害後、常林寺は、流失跡の山際に仮家(草庵)を結び、荒廃した地域の救済に励んだが、寒風には耐えがたく、寛政2年(1790)今井村に仮の堂宇を建てそこに拠を移した。

 しかし、今井村の常林寺は、あくまで仮のものであった。そこで、常林寺二十二世法泉和尚は、檀信徒に計り、常林寺再建を志し、各戸5人半のオテンマと、542文の寄付金。別に、毎戸日々2文づつ3ヵ年にわたる拠出金などによって、文政7年(1824)現在地に、間口9間、奥行き7間の本堂を中心とした伽藍を再建したのである。「上棟銘」には、再建への苦心と造営の喜びが記されている。

 転じて、この堂宇再建には、信州上諏訪の矢嵜国太郎が大棟梁となり、後見役として矢嵜善司、昭方があたったことが「上棟銘」によっても明らかなのである。

 ところで、この矢嵜一門は当時、諏訪における“大隅流”の技術集団として著名で、建築に彫刻に抜群の技をもち、国指定重要文化財の諏訪大社下宮春宮の造営にもあたった。上州では、主に鏑川の谷を舞台に活動し、係わった寺社は20余ヵ所に達した。中でも下仁田町の諏訪神社社殿は、町指定の重要文化財となっている。

 天明3年の災害後、法泉和尚と檀信徒の尽力によって、再建された常林寺の本堂は、災害復興の記念物であるが、骨太に構成された屋組、見事な組物や欄間の彫刻に何故か印象深いものがある。それは、建築と彫刻が一体化された大隅流の技によるものであろう。