はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然3

055.万座のゴヨウマツ
056.蛇の飾りの付いた土器
057.瀬戸の滝と不動さん
058.東平の赤色塗彩土器
059.常林寺の本堂
060.鳴尾の梵字岩
061.“丁石”百番観音像
062大前という地名
063.天仁元年の大噴火
064.月待ちの夜
065.吾妻山登頂の記
066.鎌原城の今昔
067.嬬恋村の獅子舞
068.種苗管理センター嬬恋農場
069.袋倉の獅子舞
070.近代文学の中の嬬恋その1
071.近代文学の中の嬬恋その2
072.大前の獅子舞
073.干川小兵衛のこと
074.浅間押し供養碑
075.黒岩長左衛門の事績
076.鎌原の獅子舞
077.大笹の獅子舞
078.下屋家文書
079.アンギンに挑む
080.嬬恋村の古代

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062.大前という地名

 大前の地名について『上野国郡村誌』では、「建久4年(1193)鎌倉右大将(頼朝)時、幕下(家来)本村二厩ヲ置キシヨリ御厩村ト云(ハ)レシヲ、改称シテ大前トスト云(ウ)」とあり、大前の地名の由来を記している。『嬬恋村誌』もこの説を採用している。ところで、源頼朝は『上野国郡村誌』に記されているように、建久4年、三原庄(浅間山麓)で、軍事訓練を兼ねた集団的な狩猟である“巻狩”を行なったのであろうか。実は、その歴史学的事実は存在しないのである。したがって、前に記したような学説は成立しないことになる。

 三原の下屋家文書によると、貞治元年(1362)の、所領を譲り渡すことを記した文書の中に「おうまいのいやとう五郎」応永20年(1413)のものには「大まやの五郎太郎」そして、応永35年のものには「大まやのひやうゑ入道」などの人名がみられる。当時の名字は地名に基づくとされる事からすれば、記すまでも無く“おうまい”“大まや”が地名であることに違いない筈である。

 それでは、おうまいとか大まやとかの語源は何だろうか。“おう”は、古語の“オオキ”を形容詞化したもので、物事の大きい事をさすと観てよいだろう。それでは、“まや”“まい”とかは何だろう。前橋の地名は、古く“まやばし”が音韻の変化で“まえばし”となったと言う。

 それと同じ事で“まや”が“まえ”に変化したもので、語源的には“まや”にこそ意味があると考えられる。

 『国語大辞典』などによると“まや”は馬屋も指すが、一般的には両下または真屋を言う。特に、両下は、屋根を棟の両側へ葺き下ろした切妻造りの家のことで、古くは立派な家の事を真屋と言ったともある。

 大前の歴史は、少なくとも南北朝の時代にまで遡り、その頃の譲状に名を残す武家が居た事は確かである。そして、その館は、おそらく、両下(真屋)であったことも確かであろう。

 大前と言う地名は、大きな両下があったことに由来するものであろう。