はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然3

055.万座のゴヨウマツ
056.蛇の飾りの付いた土器
057.瀬戸の滝と不動さん
058.東平の赤色塗彩土器
059.常林寺の本堂
060.鳴尾の梵字岩
061.“丁石”百番観音像
062大前という地名
063.天仁元年の大噴火
064.月待ちの夜
065.吾妻山登頂の記
066.鎌原城の今昔
067.嬬恋村の獅子舞
068.種苗管理センター嬬恋農場
069.袋倉の獅子舞
070.近代文学の中の嬬恋その1
071.近代文学の中の嬬恋その2
072.大前の獅子舞
073.干川小兵衛のこと
074.浅間押し供養碑
075.黒岩長左衛門の事績
076.鎌原の獅子舞
077.大笹の獅子舞
078.下屋家文書
079.アンギンに挑む
080.嬬恋村の古代

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065.吾妻山登頂の記

 10月25日、資料館横沢貴博主査と筆者は、上下水道課宮崎芳弥係長の案内で、念願の標高2354メートルの頂上に立つことが出来た。山容を覆う豊かな樹海に対し、山頂部はむき出しの岩塊による屹立した別世界であった。人々は古くからここを神々や、祖霊の宿る聖地として認識していたのである。

山頂には厳しい風雪に耐えて祠などが点在していた。そうした中でひときわ大きく上州宮と信州宮の二社が祀られていた。いずれも戦後の造営と思われるが、周りを囲む石塁には、古さを感じさせるものがあった。古くからのものとしては、板状の石を積み上げて天井を架し、床には石敷を施した岩室があった。多分、修験者(山伏)の籠もったものであろう。

この吾妻山は、日本古来の山岳信仰と、外来の仏教などの混合によって成立した修験道の霊山・霊峰なのである。このため、ここを修行の場として“霊力”を求め幾多の修験者が捨て身の登攀を行ったものと思われるが、その始まりの時期は定かでない。

江戸時代の中頃に書かれたもので、戦国時代の吾妻・利根地方の様子を比較的よく伝えたものに『加沢記』がある。それによると「……本朝の元祖にて伊弉諾尊を白山権現と敬奉る。信州浅間・吾妻屋屋両山の権現御一躰也。……」とあり、吾妻山に白山権現を祀っていたことを記している。おそらく戦国の頃から、その信仰が高まり広まったものと思われる。

ところで、白山権現を祀る白山は、石川・岐阜両県に跨る標高2702メートルの信仰の山として知られている。伝記によると、開祖である泰澄は、8世紀の頃この山頂に登り、十一面観音、聖観音さらに阿弥陀如来を感得したと言う。以来、その信仰は北陸地方一帯に広まり、やがて全国的に普及し、ついには熊野修験道に次ぐ勢力に発展したとされている。

吾妻山に籠った修験者たちは、その厳しい修行によって霊力を会得したと思われる。そして、その霊力は里にあっては、病魔を退け邪悪を避け福を招くなどの、現世利益のための呪力として、多くの人々のニーズに応えたに違いない。
吾妻山は、嬬恋の精神文化の一拠点であったのである。