はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然4

081.花開く“草莽の文化”
082.的岩を訪ねる
083.コメコメについて
084.トックリ穴の洞窟
085.信州街道の中の嬬恋
086.潤いを求めて
087.田代牧場のこと
088.環境教育について
089.信州加澤郷薬湯縁起
090.鬼岩を訪ねる
091.石樋を訪ねる
092.いのち・家族の学習
093.西窪城に想う
094.舞台公演される“浅間”
095.大前村のこと
096.三原三十四所観音札所
097.三間取りの家
098.嬬恋にあった巨大な湖
099.よみがえった延命寺
100.噴火予知への試み
101.ロウ石山”を訪ねる
102.吾妻鉱山について
103.石津鉱山を訪ねる
104.嬬恋村の近代化遺産
105.キャベツ栽培の展開
106.終わるにあたって

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102.吾妻鉱山について

 吾妻鉱山の発見は、明治四一年の晩秋にまで逆上る。鳴尾の熊野神社の神官佐藤右膳と同所黒岩国作の両名が、干俣牧場の北端松尾沢と大名沢の合流点付近に“泥湯花(どろゆばな)”を発見したことに始まる。

 以後、その鉱業権は数人の手を経て、大正三年「群馬硫黄株式会社」に移った。

 ここに「吾妻鉱山」としての採鉱が始まったが、業績は振るわなかった。その後、大正六年「吾妻硫黄株式会社」がこれを引き継ぎ、本格的採掘に着手。大正8年には、458トンを採取。翌9年には小規模な“焼取り精錬”を開始し、生産は軌道に乗った。このため山元から芦生田までの索道も敷設されるなど、硫黄の採掘はいよいよ盛んとなった。

 その後、業績は持続し、昭和2年の生産量は、本邦第4位の硫黄鉱山にまで成長した。それを反映して、昭和5年の山元の世帯数55戸、人口は258名を数えた。特に、昭和11年から13年頃まで山は全盛を極めた。しかし、盛況は持続しなかった。昭和14年からは日中戦争の影響を受け、事業は次第に縮小化され、経営は「帝国硫黄鉱業株式会社」に移った。その後は、太平洋戦争のため物資・労働力不足などもあっていよいよ衰退した。

 この間、山元には、昭和11年から電灯が灯り昭和16年には干俣小学校の分校として、“吾妻小学校”が開設されるなど、吾妻鉱山は、“鉱山集落”としての体裁を整えた。

 第二次大戦後は、復興の波にのり、加えて朝鮮戦争の特需もあり硫黄の需要は高まった。特に、昭和26年硫黄の統制が撤廃されると、価格の大幅値上げもあり、硫黄ブームに湧いた。こうした状況の中、昭和28年からは、焼取り精錬の中に“蒸気精錬法”が導入され、品位の向上と採鉱石の完全利用に成功した。

 ただ、その頃より硫黄の価格は、暴落と高騰を繰り返し、安定した状況ではなかった。それでも生産は続行され、昭和35年の山元の世帯数は292戸、人口は1318名を数えるなど空前絶後の有様であった。

 しかし、昭和38年以降は、不況による価格の低迷、加えて石油精製の際に排出される“回収硫黄”のため、硫黄の採掘は衰退の一途を辿り、遂に本鉱山も昭和46年閉山となった。