はじめに 小論集 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然4

081.花開く“草莽の文化”
082.的岩を訪ねる
083.コメコメについて
084.トックリ穴の洞窟
085.信州街道の中の嬬恋
086.潤いを求めて
087.田代牧場のこと
088.環境教育について
089.信州加澤郷薬湯縁起
090.鬼岩を訪ねる
091.石樋を訪ねる
092.いのち・家族の学習
093.西窪城に想う
094.舞台公演される“浅間”
095.大前村のこと
096.三原三十四所観音札所
097.三間取りの家
098.嬬恋にあった巨大な湖
099.よみがえった延命寺
100.噴火予知への試み
101.ロウ石山”を訪ねる
102.吾妻鉱山について
103.石津鉱山を訪ねる
104.嬬恋村の近代化遺産
105.キャベツ栽培の展開
106.終わるにあたって

■サイトマップ
■リンク
■トップページへ戻る

104.嬬恋村の近代化遺産

 昨今の社会的・経済的変化や、国民の文化に対する意識の多様化は、文化財保護の理念や制度の再検討を促(うなが)すようになった。

 ここに、平成七年文部省は、江戸時代末期から第二次世界大戦終結の頃までの、「交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設、その他の経済・生活活動に係わる遺跡など」わが国の近代化に大きな役割を果たした文化財を“近代化遺産”と呼び、その保存と活用についての施策を行うようになった。

 これに先駆けて群馬県教育委員会では、平成二・三年度、文化庁の補助事業として「近代化遺産の総合調査」を実施した。この結果、群馬県では九八三件、吾妻郡では一二八件の近代化遺産の存在が明らかとなった。中でも長野原町では四〇件、次いで中之条町では三九件の近代化遺産が登録された。

 こうした中にあって、嬬恋村では、半出来橋、旧嬬恋村役場、東電の西窪・鹿沢・今井発電所そして田代湖など六件が登録された。しかし、なぜか小串・吾妻・石津などの硫黄鉱山は登録されなかったのである。

 嬬恋地域の硫黄の採掘が、本格化するのは、江戸時代の後期以降のことであるが、精錬の過程を経て採掘するようになったのは明治の中期以後のことであった。その後、生産は順調に伸び、特に大正八・九年頃は需要の増大により、その生産量も高まり、内地の需要を満たした外は、中国などに輸出されるなど、日本の産業の一つとなった。

 しかし、日中戦争とそれに続く第二次大戦中は、「硫黄鉱業整備令」により、戦争資材の補強のため鉱山施設が供出されるなどの影響により衰退した。

 第二次大戦終了後は、化繊(かせん)鉱業やパルプ工業の復興などにより、硫黄の需要は高まり、消費量も増大し“黄色いダイヤ”などともてはやされた。さらに、朝鮮戦争の特需景気もあり、硫黄鉱業は空前の盛況を呈した。しかし、三〇年代にはいると、経済不況と“回収硫黄”などにより価格は暴落し衰退の一途を辿(たど)ることとなる。

 かつて、嬬恋村第一の産業として、三千有余の人口を擁し、日本のそして嬬恋村の近代化に大きな役割を果たした嬬恋村の三硫黄鉱山は、四六年閉山の止むなきに至った。しかし、その小串・吾妻・石津の三硫黄鉱山こそ嬬恋村を代表する近代化遺産なのである。