追分宿

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追分宿

 中山道の開通と共に追分の宿も整えられ、中山道・北国街道の分岐点として急激に栄えるようになりました。宿の繁栄とともに長くなっていく町並みは、江戸時代前期、貞享元年(1684)に5町であったのが、4年後には1町35間長くなって、西方に新町ができました。追分宿には本陣が1軒、脇本陣2軒、その他に旅籠屋、商家、茶屋などが軒を並べていました。「厳寒不毛の地」なるが故に、人々は生活の多くを商いに頼り、三宿のうちでは最も栄えた宿となりました。

 旅籠屋、茶屋が多い町並みに、しだいに雑貨を商う店、質屋、造り酒屋、生薬屋が増え、女髪結い、京菓子屋、東菓子屋も出来ました。京と東とを分けて菓子を扱う、こうした商法が宿場を栄えさせる1つの要因でした。

 商いをする者の中には、近在の村々からやってきて借家で商売をはじめる者も多くありました。古い屋号には出身地の地名を使っているところもあって、江戸時代の図会などに、そんな文字の入った看板を店先に掛けている商店などが多く描かれてい 当時の宿場はどこもほぼ同じ形体に整えられており、中央に用水が流れていました。用水は今、片寄せられて道は交通に便利な形に変えられています。



刑場のあとに並ぶ石仏

 分去れの北国街道寄りには、郷倉や御影陣屋の牢がありました。その北側の草地の広場は、刑場の跡です。幕末に官軍が江戸へむかう折、その先鋒隊として一足先に出発した赤報隊が処刑された場所です。赤報隊は先鋒嚮導隊として認められ京を出発したのですが、赤報隊のかかげる「租税減免」が新しい政府の政策と異るために「偽官軍」として処刑されたのだとも言われています。その赤報隊の総裁相楽総三は下諏訪で処刑され、その下で隊を率いた桜井常五郎は他の2人とともに、分去れの刑場で処刑されました。

 桜井常五郎は春日村堀端(望月町)の庄屋に3男として生まれ、明治維新の荒波に飲みこまれていった多勢の男たちの1人です。新しい時代を夢みながら、為政者の術策の中に傷つき消えていったものがいたことを刑場はそのままに伝えています。60年後の昭和2年、常五郎の子孫の奔走により、そのほとんどが偽官軍の汚名を解かれ、更に贈位されたにもかかわらず、分去れで処刑された3名にはそのまま罪が残されています。

 この偽官軍を捕らえるための騒動を追分戦争と呼び、多くの死闘がくり返されました。刑場のあとに夕陽が差しますと、色づいた秋の木の葉が紅く燃えているようにみえます。
多くの板碑が並び、冷やりとした空気が漂っています。


飯盛女

 追分宿では江戸時代の初期から飯盛女を置いていました。娘たちの契約書である証文が残されていますが、それによれば、貧しさのために娘を年季奉公に出すという親がほとんどで、似かよった文章で書かれています。
 寛永20年(1643)、江戸時代初期に交わされた証文には、金子3分を借りて、その保証として娘を10年の年季奉公に出すというものがあります。1分とは1両の4分の1の価ですが、ここでいう3分はあくまでも借金です。1年に1分2朱の利子をつける約束で3分も借り、その代わりに10年間娘を無償で働かせるというのです。
 1年に1分2朱が3分の元金に加えられていく、10年間借りるつもりであれば、借金は4」両2分になります。凶作などが多く貧しい人々の生活の中で4両余りの金額を返済することは難しいです。証文の終わりに、返金できないときはその娘を普代、すなわち20年以上の奉公に年季をのばす旨が記されています。増えていく借金のために娘はそのまま身を売られたも同然の生活を送るのでした。借金のために奉公に出るのは娘ばかりではありません。妻を「質置」にして4両1分を借りた男もあります。
 追分宿では、明治5年の解放令で自由になった女たちが129人いたといいます。250人の飯盛女を抱えていた江戸時代に比べると半減してはいますが、5町余りの宿場に129人の女たち
を抱えた旅籠屋が並んでいたのです。



油屋

 借宿を抜けて約一里で追分宿です。この宿駅には升形はなく、浅間神社前を通ってそのまま入って行きます。長さは東西へ5町42間(665メートル)で、戸数は元禄9年(1696)に152戸、人口892人でしたが、天保14年には103戸、人口712人となっています。旅寵は大きなのが5戸、中17戸、他は小さいものであり、脇本陣に甲州屋と油屋がありました。油屋はその豪壮な建物を焼失しましたが、その後、再築して現在の民家風建物となりました。

 明治になると堀辰雄、川端康成などの文人がよく泊まったことで有名な旅館ですが、昭和12年11月に隣家からの失火に煽られほぼ全焼してしまい、現在の所へ再建したそうです。今もその焼け残った1部分が見られます。
 当時、堀辰雄を訪ねた詩人・丸山薫は「油屋」の印象を『「四季」につどう詩人たち』の中で、一番印象に残ったのは永い年月の間に多くの人たちが上り下りした階段の中央部がへこんでいたことと、殿様が泊まった上段の間が堀辰雄の仕事部屋にあてがわれていたことと記しています。その昭和12年(油屋焼失の前)は堀辰雄が『風立ちぬ』を書き上げた年です。



 追分宿は寛文(1660年代)頃から繁栄して町となり、貞亨(1684年代)頃には長さ5町余(約545メートル)の町並みができ上っていました。そして元禄九9年(1696)には戸数152、人口892人となりましたが、元禄13年(1700)に幕領となった頃から戸数が減り、慶応3年(1869)には92戸となりますが、人口は802人ありました。この当時、旅籠は大5戸、中17戸、小13戸合計35戸あったということですから、旅籠の数は3宿中で多い方でした。

 ちなみに油屋の並びに「時幻」という骨董屋が古い建物をそのまま利用して営業しています。ちょっとのぞくと掘り出し物もありました。さらに「鳶屋清三」という古い庵看板を出している所は元旅籠屋だったそうです。

「時幻」の店内


 分去れの升形茶屋津軽屋は現存し、平入り、出桁造り、階上は縦格子窓、その左側は漆喰壁でます形と「つがるや」の文字が書かれてあります。その右側の梅の絵のある部分は、昭和36年に台風の被害で取り壊されました。このほか柏屋、蔦屋、現金屋、若菜屋も旧状を残し、柏屋は津軽屋と同じ出格子窓ですが、他の三戸は手すりだけが出っ張った形です。




高札場


  古代から明治時代初期にかけて行われた法令を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法です。幕府は人々の往来の激しい地点や関所や港、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に高札場(制札場)と呼ばれる設置場所を設けて、諸藩に対してもこれに倣うように命じました。

 これに従って諸藩でも同様の措置を取ると同時に自藩の法令を併せて掲示して自藩の法令の公示に用いました。また、宿場においても多く設置され、各宿村間の里程測定の拠点ともされました。このため、移転はもとより、高札の文字が不明になったときでも、領主の許可なくしては墨入れもできませんでした。その代わりに幕府や諸藩では「高札番」という役職を設けて常時、高札場の整備・管理に務めさせ、高札の修繕や新設にあたらせました。

 また、この民衆への周知徹底の為に高札の文面には、一般の法令では使われない簡易な仮名交じり文や仮名文が用いられました。更には当時の幕府は法律に関する出版を厳しく禁じる方針を採っていたにも関らず、高札に掲示された法令に関しては「万民に周知の事」と言う理由で簡単に出版が許されたばかりでなく、高札の文章は寺子屋の書き取りの教科書としても推奨されていました。



本陣


 高札場を再現している所に本陣があり、建物は街道から少し奥に入った所にあります。街道に面している所には「明治天皇行在所跡」の碑が立っています。本陣の広い前庭には明治維新の頃まで貫目改め所があり、江戸時代初めの頃には、中山道では板橋とこの先、洗馬に設置されていたということです。ちなみに今の貨物輸送に比べればかなり安かったようです。
 本陣と街道をはさみ南東の空き地には、本陣が御膳水として利用していた湧き水が今も清らかな輝きを見せています。
 本陣の西端を北に向かう道がありますが、その角に「浅間山道路第一詣石」と刻まれた石標が立っています。この道は草津道で、沓掛宿の西の通称「うま道」と呼ばれていた草津道と合流する道です。
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