高濱虚子記念館

北部地区 西上州 軽井沢地区 西部地区 その他
北軽井沢 浅間・嬬恋 碓井・横川 旧軽井沢 軽井沢駅 南軽井沢 中軽井沢 信濃追分 万座・白根 草津・吾妻
 小諸市の観光ガイド
■信濃追分の観光
■御代田の観光
■小諸市の観光
  小諸市観光交流館
  旧小諸本陣主屋
  懐古園
  藤村記念館
  小諸義塾記念館
  小諸市立郷土博物館
  小諸市立小山敬三美術館
  水明楼
  小諸高原美術館・白鳥映雪館
  高濱虚子記念館
  渥美清こもろ寅さん会館
  マンズワイン小諸ワイナリー
  布引観音・釈尊寺
  海応院
  玄江院
  光岳寺
  正眼院
  あぐりの湯こもろ
  展望露天風呂雲の助
  中棚荘
  布引温泉 こもろ
  天狗温泉浅間山荘
  丸山珈琲小諸店
  やまへい
  丁子庵
  そば七
  一ぜんめし揚羽屋
  はりこし亭
  香色

■東御市の観光
■佐久の観光(岩村田地区)
■佐久の観光(臼田地区)
■佐久の観光(浅科地区)
■佐久の観光(望月地区)
サイトマップ(総合)
サイトマップ(信濃追分)
リンク
トップページへ戻る

高濱虚子記念館


 小諸は、近代の俳人として名高い高濱虚子が愛した疎開の地。彼が小諸で過ごした4年間の作品を展示、保存しています。隣接する虚子庵は、現在公開されている唯一の虚子の旧宅。
 高濱虚子が太平洋戦争の戦火を避けて、小諸に疎開したのは昭和19年9月でした。当地小山栄一の援助のもと、厳しく美しい風土に接した虚子の詩精神は新たな躍動を見せ、此処に「小諸時代」という新たな世界を現出しました。小諸高濱虚子記念館は虚子の偉業を顕彰するとともに小諸時代の貴重な作品・資料を保存展示する市立の記念館です。

長野県小諸市与良町2-3-24
電話番号 0267-26-3010
休み 水曜(祝日の場合は翌日休)
時間 9:00〜16:30
しなの鉄道小諸駅から徒歩15分
料金 大人300円、小人200円(団体割引あり)



高浜虚子

 愛媛県松山市長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の4男として生まれました。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぎます。明治21年、伊予尋常中学に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わります。明治24年子規より虚子の号を受けます。
 明治26年、碧梧桐と共に京都の第三高等学校に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどでした。明治27年(1894年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入、のち中退し、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込みました。
 明治30年、柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加。翌年、虚子がこれを引き継ぎ東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石なども寄稿しています。子規の没した明治35年、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭しています。
 明治43年(1910年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住しました。以来、亡くなるまでの50年間をここで過ごしました。大正2年(1913年)、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。このとき碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句を詠んでいます。

 昭和19年9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、
 昭和22年10月までの足掛け4年間を小諸で暮しました。

 昭和29年、文化勲章受章。
 昭和34年4月8日、85歳で永眠。
 墓所は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。
 戒名は虚子庵高吟椿寿居士。
 その生涯に20万句を超える俳句を残しました。

碧梧桐との対立

 子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は大正2年の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えました。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立しました。そしてまた、昭和2年、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げました。
 しかしまた反面、碧梧桐が亡くなった翌年の昭和12年(1937年)には嘗ての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句を詠んでいます。
 俳壇に復帰したのち虚子つまり「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即ホトトギスであったといえます。虚子は俳壇に君臨する存在でした。「ホトトギス」からは飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを輩出しています。




高浜虚子の思想

「虚子俳話」の序文から・・・
   序
 終戦になった昭和二十年頃だったかと思ふ。まだ小諸の疎開地にをった頃、膝を容るるに足る茅屋に大佛次郎氏が突然訪ねて来た。この方面に来たついでに訪ねたとの事であったが、こんな話をした。

「朝日新聞の東京版に、今度俳句を募集することにしようと思ふのだが、その選をしてくれないか」

 大佛氏は朝日新聞社の意を受けて来たもののやうであった。戦争の為に各新聞の体裁も激変を来たして、それまで紙面を賑わしてをった俳句は、戦争に関するものが時々載る位のもので、紙面から殆ど跡を断ってゐた。その時に当って、俳句の為に率先して紙面を割かうとする事は喜ばしい事と思った。はじめは東京版のみであったが、間もなく大阪(大阪)小倉(西部)名古屋(名古屋)にも及んだ。
 その後、昭和三十年四月から募集句に評を加へ、小俳話をも合せ載せることになった。 これも新聞社の要望に依ってであった。その俳話を集めたものが、この「虚子俳話」である。

 大東亜戦争が、日本国民の思想の上に大きな影響を齎した事は争はれない事実であらう。 当時新聞記者のインタビューには必ず戦争の俳句に及ぼした影響を聞くのであった。私はそれに対して斯う答へるのが常であった。

「俳句は何の影響も受けなかった」

 新聞記者は皆唖然として憐むやうな目つきをして私を見た。他の文芸は皆大いなる影響を受けた、と答へる中に、又、私以外の俳人は大概、大きな影響を受けた、と答へる中に、一人何の影響も受けなかったと答へるのは、痴呆の如く見えたであらう。その後、俳句界の論議がだんだん興って来た。又、俳句の革新が叫ばれ、種々の新しい旗印が打ち建てられた。
 私は依然として、俳句は伝統芸術であり、花鳥諷詠(四季の現象を花鳥の二字で代表せしめ)の詩である、といふ言葉を返すばかりであった。
 「深は新なり」
 「古壺新酒」
 私はこの二標語をも亦たここに繰返して置く。
 俳話のあとに、その執筆当時に出来た私の俳句を載せるのを常とした。これは俳話と何の関係もないものである。書物に纏めるに当たって、省かうと思ったが、東都書房の窪田氏の勧めによって其儘載せる事にした。

昭和三十三年一月六日   
  鎌倉草庵にて
  高濱虚子