松島榮治先生の論文集
■はじめに
■今井東平遺跡の調査とその成果
@黒色磨研注口土器
A敷石住居跡
■修験道関係資料の調査
@万座温泉の“礫石経”
A華童子宮跡
B三原出土の経筒
C今宮白山権現
D熊野神社の奥ノ院
■埋没村落「鎌原村」の調査
@埋没した鎌原村
A鎌原村の発掘
B発掘調査の成果
■峠を越えての文化の流入
@縄文文化繁栄の背景
A修験道隆盛の背景
B鎌原村の生活文化の背景
■おわりに
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B鎌原村の生活文化の背景
18世紀の後半になると、商品流通の活発化によって、商人たちの移動も盛んとなり、地方の町や郷村に多彩な文化が勃興したとされ、これを“草莽(民間・在野)の文化”と呼んでいる。そして、その主な荷担者は、おそらく金と暇に恵まれた旦那衆であり、一般大衆は、貧しいが故に、この文化の荷担者にならないばかりか、その恩恵に浴することも少なかったろうされている。果して、江戸時代の一般大衆は、この草莽の文化にも見放されていたのだろうか。
前に記したように、鎌原村では18世紀の後半、肥前磁器(伊万里焼)が普及し、日常の生活の中でごく普通に使用されていたのである。そして、その中にはかなりの優品が含まれているのである。
こうした傾向は、陶磁器に限らない。ビードロ鏡をはじめ鼈甲製の笄などの装身具、硯・墨・筆などの文房具、判子や秤など経済生活に係わるもの、さらに茶釜や茶碗などの趣味や娯楽に関するものなど、それは、これまでわれわれが予想していた生活文化より、遙に豊かであり、そのレベルも高いものであった。ここ鎌原村には、草莽の文化が花開いていたのである。
浅間山北麓の標高900メートル前後の地にこうした草莽の文化が開花したのは、この地が、中山道の脇街道(信州道)の道筋に在ったこと、さらに、中山道沓掛宿から草津温泉への道筋に在ることなどして、ここが浅間北麓の拠点的集落(交通の要所)として、宿場的村落として繁栄していたものと思われる。
そして、この地には、中山道の豊岡宿からいわゆ大戸通りを「万騎峠」を経て、江戸の文化が鎌原村へ。そして、信濃国からは鳥居峠・鼻田峠・地蔵峠を越えて上方の文化などが盛んに流入していたことと思われる。
また、『群馬県史』資料編11(464頁)「吾妻川通船見込帳」などによれば、上り荷として瀬戸物などをあげている。物資の流入には河川を利用した水運も無視できない。 |