はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然2

028.産馬の業
029.浅間山溶岩樹型
030.大笹駅浅間碑
031.万座温泉事始め
032.風土博物館の構想
033.小串鉱山探訪の記
034.中居屋重兵衛
035.鹿沢温泉繁盛記
036.鬼押出しの溶岩流
037.湯の丸レンゲツツジ群落
038.盛だった村芝居
039.無量院の五輪塔
040.抜け道の碑
041.華童子げどうじの宮跡
042.歴史の道「毛無道」
043.円通殿
044.今宮白山権現のこと
045.芭蕉の句碑
046.今井東平遺跡出土の土偶
047.延命寺の碑
048.田代地区の両墓制
049.ホタルのひかり
050.『片栗粉』の商標
051.帰ってきた小仏像
052.万座温泉の『礫石経』
053.東平遺跡の敷石住居跡
054.浅間山について

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034.中居屋重兵衛

 中居屋重兵衛は、文政3年(1820)、中居村(現三原)に生まれ、幼名を武之助、成人して、、撰之助と改名した。横浜に出てからは、出身地に因んで屋号を中居屋とし、さちにその名も重兵衛と改めた。

 彼は20才の頃、江戸に出て、和泉屋とされる書店に住み込み、その仕事に励むほか、学問を志し儒学を学んだほか、特に、火薬の研究に従事し、その製造を試みた。また、その必要もあって蘭学を学ぶなどして、幕府の要人や学者・文化入との交流もあった。また、安政元年(1854)には、江戸の日本橋に店を構えて開業独立し、白根出の硫黄を原料とする優良な火薬を製造販売すると共に、薬、絹、木綿なども販売し、大いに産をなした。

 重兵衛は商売に専念するほか著述にもたずさわり、嘉永七年には『子供教草』を、安政2年(1855)には『集要砲薬新書』を刊行した、『子供教草』は、“道徳”の大切さを幾多の例をあげて説いたものであり、『集要砲薬新書』は、硫黄の採取や火薬の製法・貯蔵法、そして、落雷を避けるための方法など、37項目にわたり、数多くの図を入れて書いている。

 安政6年(1859)横浜が開港されると、重兵衛は早速外国商館に対する生糸の売り込みを開始した。横浜に設けられた重兵衛の店は、間口・奥行ともに30間(54.6メートル)とされ、60余人もの店員を擁したという。また銅葺の屋根をいただく豪壮な店は“銅御殿(あかがねごてん)”と呼ばれ、重兵衛は“浜の門跡様”と言われる程の豪商となった。

 しかし、これほどまでに全盛を極めた重兵衛は、開店2年余り経ったある日、こつ然と横浜から姿を消し、店も幕府に没収されてしまった。彼は、文久元年(1861)42才で死去したとも伝えられている。

 昭和31年群馬県は、中居屋重兵衛を、歴史的人物として評価し、その墓を県指定史跡とし、『集要砲薬新書』など6点を重要文化財に認定した。(本稿は、安斎洋信さんに校閲して頂きました。)