はじめに 発掘誌 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然2

028.産馬の業
029.浅間山溶岩樹型
030.大笹駅浅間碑
031.万座温泉事始め
032.風土博物館の構想
033.小串鉱山探訪の記
034.中居屋重兵衛
035.鹿沢温泉繁盛記
036.鬼押出しの溶岩流
037.湯の丸レンゲツツジ群落
038.盛だった村芝居
039.無量院の五輪塔
040.抜け道の碑
041.華童子げどうじの宮跡
042.歴史の道「毛無道」
043.円通殿
044.今宮白山権現のこと
045.芭蕉の句碑
046.今井東平遺跡出土の土偶
047.延命寺の碑
048.田代地区の両墓制
049.ホタルのひかり
050.『片栗粉』の商標
051.帰ってきた小仏像
052.万座温泉の『礫石経』
053.東平遺跡の敷石住居跡
054.浅間山について

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035.鹿沢温泉繁盛記

 鹿沢温泉は、古くは“山の湯”とも呼ばれ、西吾妻や上田市周辺の人達によって親しまれ、特に信州からの客が多かった。その発見は、「信州加沢郷薬湯縁起(くすりゆえんぎ)」によれば、孝徳天皇の白維(びゃくき)元年(650)とされるが、これは伝承であって確かなことは分からない。

 その所在地が、上州と信州との国境にあって、古くは、地権は大笹・田代の両村に、温泉権は長野県小県郡の新張(みはり)・禰津(ねつ)の両村(現東部町)に属していた。そのため、新張・禰津の人達によって、温泉小屋など建設の場合は、大笹・田代の村々に、借地証文や地代などを納めなければならなかった。

 それにしても、温泉源が豊富であり、しかも良質であったため、延享元年(1744)には湯小屋が15軒もあって繁盛した。その後、洪水の被害もあって一時、地頭茶屋1軒と湯小屋4軒となってしまった。しかし、その後も湯客の増加につれて、湯小屋の建設が進み、宝暦10年(1760)には12軒となり、ほぼ旧態に復興した。

 その経営は、新張・禰津の両村から3里余り(約12キロ)、田代からは1里半(6キロ)、という山中にあり、しかも寒さは厳しいため、冬季の温泉稼業はままならず、4月初めに湯小屋を開いて客を受け入れ、10月8日に閉鎖するのが一般的な習わしであった。

 鹿沢温泉の利用の歴史は、信州側を軸として展開された。そのため、湯客の多くは、東部町の新張から山道を約12キロを辿ることとなるが、その道程は厳しかった。そこで彼らは、旅の安全と利益のために、1町(108メートル)毎に観音像を建て、併せて百体を設置した(東部町指定文化財)。その最も古いものは天保8年(1837)、新しいものは明治2年(1869)である。江戸時代後期における繁栄の様が偲ばれる。

 こうした鹿沢温泉は、大正7年の大火によって全焼し、翌8年「雲井乃湯」のみが旧地に再建され、他の旅館は、新鹿沢に移り新発足した。