はじめに 発掘記録 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然1

001.鵺ぬえの声を聞く
002.象のいた村
003.赤米の栽培
004.明礬の稼ぎ
005.ヒデのあかり
006.消えた浅間大明神
007.馬鈴薯の栽培
008.熊野神社の大杉
009.硫黄の採掘
010.黒色磨研の注口土器
011.大笹関所
012.三原出土の経筒
013.シナ科のサユミ
014.高原の“舞姫”
015.石戈の発見
016.嬬恋駅周辺のにぎわい
017.鹿のいる風景
018.郷土料理“クロコ”
019「大笹の湯」引湯跡
020.天狗の麦飯
021.鎌原の郷倉ごうぐら
022.炭を焼く
023.山の呼び名
024.今井の宝篋印塔
025.門貝の熊野神社
026.袋倉の廻国供養碑
027.浅間嶽下奇談

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005.ヒデのあかり

 住居内における炉の焚火は、暖房や食物の加工に重要な役割を果たしたが、屋内のあかりとしても重要であった。

 炉の焚火から、あかり専用の火が分化したのは何時の頃か明らかでない。しかし、炉で焚いた木々の経験から、樹脂の多い松の木、特に根株が長時間明るく燃えることに気付き、これをあかり専用の燃料(ヒデ)とするようになった。

 ヒデは、手頃の自然石の上部を彫り窪めて作った「ヒデ鉢」で燃やして、屋内のあかりとした。

 昭和56年、埋没村落「鎌原村」の発掘調査の際、十日ノ窪の埋没家屋からは、三百数十地点、2000点を超す生活用品の出土があった。この中に見慣れない3点の石製品があった。

 内2点は、その上部を比較的粗く碗状に彫り窪めたものであり、他の1点は、それらを載せる台とみられた。その用途は、粗製である事や、煤などが付着している事、さらに、碗状に彫り窪められた底部には、硫黄の小塊が残っていたことにより、食器などとは異なり、火に係わる道具と考えていた。そして、その後の検討により、これが「ヒデ鉢」であり、天明3年(1783)の時点、鎌原村では夜間屋内ではヒデのあかりを灯していた事が判明した。

 群馬県に初めて電灯が灯ったのは明治27年とされるが、嬬恋に電灯が灯ったのは、大正14年とされる。それ以前のあかりの主流は石油ランプであったが、石油ランプが一般に普及するのは明治10年頃とされる。石油ランプ以前は、菜種などの油のあかりもあったが、油菜の栽培が少なく、松の多い嬬恋地域では、素朴なそして原始的な、ヒデのあかりが明治になっても灯されていたのではないだろうか。

 ヒデ鉢の中のほのかな炎に、古き時代の庶民のくらしがうかび上がってくる。