はじめに 発掘記録 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然1

001.鵺ぬえの声を聞く
002.象のいた村
003.赤米の栽培
004.明礬の稼ぎ
005.ヒデのあかり
006.消えた浅間大明神
007.馬鈴薯の栽培
008.熊野神社の大杉
009.硫黄の採掘
010.黒色磨研の注口土器
011.大笹関所
012.三原出土の経筒
013.シナ科のサユミ
014.高原の“舞姫”
015.石戈の発見
016.嬬恋駅周辺のにぎわい
017.鹿のいる風景
018.郷土料理“クロコ”
019「大笹の湯」引湯跡
020.天狗の麦飯
021.鎌原の郷倉ごうぐら
022.炭を焼く
023.山の呼び名
024.今井の宝篋印塔
025.門貝の熊野神社
026.袋倉の廻国供養碑
027.浅間嶽下奇談

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007.馬鈴薯の栽培

 南米アンデス山系を原産地とする馬鈴薯は、熱帯から温帯にわたって広く分布し、特に温帯の冷涼な気候に適する作物とされる。わが国へは、慶長3年(1598)オランダ人により、ジャワのジャカルタからもたちされた。このため「ジャガイモ」とも言う。同じころ中国にも伝わり、中国では馬鈴薯と名付けられた。

 異国から伝えられたこの作物は、その栽培が冷涼な気候にも適すると言う特性から、不作による飢餓の際の救荒作物として着目され、17世紀後半以降、甲斐の代官中井清太夫・飛騨の代官幸田善太夫、そして、著名な蘭学者高野長英などによって、その栽培が奨励された。しかし、奇異な形とその味が、当時の人々の好みに合わず、農作物として本格的に普及するのは明治に入ってからとされる。

 こうした中で嬬恋村への馬鈴薯の普及については、田代の松本兼次氏の祖先、相秀(今吉)が明治29年に記述した『いもの原由記』に詳しい。

 同書によれば、天明の頃(1781〜88)、越後の屋根職人が土産として持ち込んだのが始まりと言う。これが嬬恋の風土に適合していた事と、度重なる凶作の際の救荒作物として普及し、それより50年ほどを経過した天保の時、松本家では50俵を生産したとある。ここに嬬恋地域が既に馬鈴薯の産地となっていた事が窺われる。

 また、その頃、馬鈴薯を原料としたカタクリ粉の生産を開始し、これを売り出すなどして、商品作物として有用である旨を記している。

 冷涼高原の田代をはじめとする嬬恋西部地域は、江戸時代には、碗埆下毛の雑穀を主とする貧しい山村地帯とされている。しかし、ここに生活した人々は豊かさを求めて、全国に先駆けて、積極的に馬鈴薯の栽培を開始し、更にそれを原料にしたカタクリ粉の生産に励んだのである。そこには、したたかに生きる嬬恋農民の原点がある。