はじめに 発掘記録 文化と自然1 文化と自然2 文化と自然3 文化と自然4 風土博物館
■文化と自然1

001.鵺ぬえの声を聞く
002.象のいた村
003.赤米の栽培
004.明礬の稼ぎ
005.ヒデのあかり
006.消えた浅間大明神
007.馬鈴薯の栽培
008.熊野神社の大杉
009.硫黄の採掘
010.黒色磨研の注口土器
011.大笹関所
012.三原出土の経筒
013.シナ科のサユミ
014.高原の“舞姫”
015.石戈の発見
016.嬬恋駅周辺のにぎわい
017.鹿のいる風景
018.郷土料理“クロコ”
019「大笹の湯」引湯跡
020.天狗の麦飯
021.鎌原の郷倉ごうぐら
022.炭を焼く
023.山の呼び名
024.今井の宝篋印塔
025.門貝の熊野神社
026.袋倉の廻国供養碑
027.浅間嶽下奇談

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016.嬬恋駅周辺のにぎわい

 小瀬を発った牧水が、嬬恋駅(芦生田)に着いたのは、大正11年の10月17日のことであった。その様子を、牧水は次のように記している。

 「この草津鉄道の終点、嬬恋駅に着いたのはもう9時であった。駅前の宿屋に寄って部屋に通ると炉が切ってあり、やがて炬燵をかけてくれた。済まないが、今夜は風呂をたてなかった。向うの家に貰いに行ってくれという。提灯を下げた少女のあとをついてゆくと、それは線路を越えた向側の家であった。」 『みなかみ紀行』

 当時の芦生田の様子が彷沸として蘇ってくる。

 草津鉄道は、大正3年に敷設工事が開始され、大正8年軽井沢から芦生田までの約37キロが開通し、終点の芦生田の駅は「嬬恋駅」と名付けられた。

 嬬恋駅の設置された芦生田は、明治28年の資料によれば、戸数34戸、人口156人の比較的小規模の集落であった。しかし、駅が設置されると、草津への湯治客もここで馬などに乗り換えた。また、生活物資の搬出・搬入の基地として活気づき、大正9年には、戸数67戸、人口322人と、戸数・人口とも倍増した。

 嬬恋駅周辺の賑わいは、これに止まらなかった。大正12年今井発電所、同14年の鹿沢発電所、そして、昭和4年の西窪発電所の建設が始まると、事業所の設置や、工事関係者の居住もあって、一般商店に加えて運送店、カフェー、芸者屋、映画館などが軒を連ねた。この結果、昭和5年には戸数114戸、人口580人、大正9年に比べるとさらに2倍近くに増加し、空前の賑わいをみせた。

 しかし、草軽電鉄の終点が草津に移る一方、昭和10年省営自動車吾妻線が開通され、三原に新駅が設置されると、交通上の拠点がしだいに三原に移り、再び牧水が『みなかみ紀行』に記したような鄙びた集落と化してしまった。